保阪正康 日本史縦横無尽
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剛直と軍事の間、わずか15年の大正時代に何が変わったのか?
大正時代は、明治と昭和に挟まってなんとなく影が薄いように見受けられる。明治が45年(実質では44年になるが)、昭和が64年(実際は62年と2週間)なのに対し、大正は15年に過ぎない。実質では14年だ…
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社会主義や社民主義など全てを「逆徒」と見た時代に死んだ国家の理性
大逆事件以後の日本の社会主義運動は、いわゆる「冬の時代」に入った。政府は社会主義思想に極端なまでの恐怖を持ち、こういう主義者の集会や出版活動、さらには「社会」と名がつけば、それだけで危険視するという…
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「自分の死後は万事監獄の処置に…」取り調べ刑事から女性としての辱めを受けた管野スガ
堺利彦が1月24日に、東京監獄に面会に訪れた時は死刑が執行中であった。しかし監獄側から「本日は面会を差し止める」と言われて、忿懣やる方なく新聞記者に怒りを伝えている。そこで死刑判決が出た後に、被告た…
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社会主義者・管野スガの処刑は「悪びれたる様なかりき」と報じられた
アナキズム関連の書や死刑になった社会主義者や無政府主義者の動きについての書に触れていると、明治42(1909)年6月ごろに宮下太吉が爆弾を製造し天皇に投げつけるという案を管野スガに打ち明けたほか、新…
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「フランス革命を日本でも行え」と幸徳秋水がアジったという筋書き
幸徳秋水、大石誠之助、内山愚童らの影響力が大きいことを、国家の側は知っていたのであろう。大石は医師、内山は僧侶、こうした仕事についている人物が、社会主義や無政府主義に傾斜することは極めて危険との判断…
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「詳しくは知らない」を説得されたと曲解した暗黒裁判
大逆事件として事件の輪郭をつくり、主義者を抹殺しようと考える国家意思は、検事総長の記者への報告を丹念に読む限り、主犯格の人物を想定し、その動きをもとに平民新聞のかつての読者や社会主義関連の文献を読む…
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2年前の会話を再現した「でっち上げの罪状」からうかがえる司法当局の意思
検事総長が新聞記者に伝えた各被告の罪状はいわば、いかに事件がでっち上げられたかの証拠になるともいえた。と同時に、幸徳秋水を巧みに事件の主軸に据えるかのような筋書きもうかがえる。その他に管野スガと大石…
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検事総長が発表した「大石誠之助医師」の嫌疑、7項目の不審点
検事総長が発表した大逆事件の全容については、各新聞の扱いがそれぞれ異なるにしても、改めてその内容を検証してみると、どのような脚本が作られたかの背景がわかってくる。その脚本では、大石誠之助の役割は「医…
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大石誠之助死刑囚が直面した「国家の敵を抹殺する」体制への覚悟
大石誠之助についてもう少し触れておきたい。 平民新聞の熱心な読者で、しかも非戦論に共鳴している青年に西村伊作(のちの文化学院の創設者)がいた。大石の甥である。大石の兄・余平の子息だが、母方に…
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米国で学んだ医師・大石誠之助の最期の言葉
堺利彦はこの日(明治44年1月21日)、幸徳秋水のほかに3人の死刑を宣告された同志に会っている。その1人が大石誠之助である。大石は、和歌山県新宮町で医師として開業し、人々の信望を集めていた。いわば地…
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明治44年1月24日、堺利彦は幸徳秋水らの死刑執行を確信した
司法当局が処刑時の様子を詳細に報道させたのは、国家に叛く思想を持つと、このような報復を受けるのだという意思を国民に知らせるためであった。そもそも大逆事件と称したのも、12人の死刑囚の全てに、あたかも…
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新聞が報じた社会主義者・幸徳秋水「死刑執行」の一部始終
24人の裁判での内容やその容疑理由などから判決に至る内幕などは、検事総長から長文の文書で発表され、それを各新聞が取り上げている。むろんこれは国家権力の都合のいいようにつくられたドラマのようなものとも…
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新聞に躍った「逆徒遂に絞首台の露と消ゆ」の見出し
大審院での24人の死刑判決は、この頃の新聞に大きく取り上げられた。それまで法廷の様子などは一切報じられなかったが故に、まさに「記事解禁」の様相を呈する状態になった。 しかも翌日には「天皇陛下…
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検挙から判決までに8カ月足らず…24人に死刑判決が下った暗黒裁判
幸徳秋水らのこの事件の裁判は非公開で行われ、被告側の証人は全く呼ばれず、大審院での1審即決の裁判であった。弁護人である今村力三郎はのちに次のように証言している。 「余は今日に至るも該判決に心服…
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天皇暗殺を考えたのはわずか3、4人…幸徳秋水は関わりを避けていた
国家権力を暴力という視点で見れば、この事件は2つの特徴を持っている。この2つを初めに語っておきたい。近代史の根幹に関わるからだ。 一つは、国家権力は自らに不都合な思想、哲学、価値規範などを弾…
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桂首相や山県有朋らが壮大なドラマをでっち上げて、社会主義者を追い詰めた
大逆事件は当初は7人が検挙されたに過ぎなかったのだが、それが警察、司法当局によって大掛かりな筋立てに変わり、全国で一斉に社会主義者や無政府主義者の検挙に至った。当局は明治43(1910)年6月5日の…
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もっとも熱心に尋問された幸徳秋水 天皇暗殺疑惑で26人が起訴された暗黒裁判
この大逆事件は、近代史の中で国家権力が弾圧の手法を確立した事件でもあった。壮大な虚構のドラマを作り、その筋立てに人物を当てはめるという手法でもあった。 このようなフレームアップ事件は、近代史…
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天皇に爆裂弾を投げるという直接行動で自由国家をつくるという宮下太吉の政治的信念
歴史的には大逆事件と言われているが、実際にどういう事件だったのか、その大まかな輪郭を説明しておかねばならない。発端は職工の宮下太吉が自ら製造した爆裂弾を手にして始まったと言っていいであろう。これを天…
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“無政府主義者”の宮下太吉 明治42年11月、爆弾の製造に成功した
明治40年代の日本は、日露戦争による戦争疲れのような状況でもあった。青年層には賭博への関心を深めたり、遊興にうつつを抜かす者も増えた。さらに退嬰的な風潮に身を任せ、挙げ句の果てに自決への道を歩む者も…
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帰国した幸徳秋水は後難を恐れて中江兆民の遺族との接触を絶った
幸徳秋水が直接行動を志向するようになったのは、アメリカ旅行を終えて帰国してからというのが、歴史的見方であった。特に明治天皇への誹謗中傷は山県有朋らの元老を怒らせ、司法界などの長州閥人脈が幸徳に狙いを…