保阪正康 日本史縦横無尽
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山県有朋は天皇の権力と権威を使って社会主義思想を抑え込もうとした
西園寺公望内閣に代わって登場したのは、桂太郎内閣である。むろんこの内閣は、山県有朋の意向に沿っていた。長州閥の内閣で、体制破壊をもくろむ社会主義者、無政府主義者を徹底弾圧しようというのであった。山県…
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赤旗事件逮捕者への暴行 南京虫で錯乱状態に追い込まれた房内の拷問
東京二六新聞が報じた「赤旗事件」の逮捕者に加えられた暴行の数々は、想像を絶する内容だったようである。殴る蹴るなどの暴力は当たり前というわけだが、さらにこの新聞はこういう形の拷問もあったといって、その…
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赤旗事件で新聞が報じた「拷問されて悶絶す」 過酷な取り調べがかき立てた復讐心
赤旗事件は、その内容ではそれほど大きな事件ではないとも言えるだろう。だがこの事件が歴史に残ることになったのは、その後の大逆事件の伏線になったが故でもあった。しかもこの事件で逮捕された14人への取り調…
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赤旗事件で逮捕された14人は全員起訴。大杉栄は懲役2年半だった
山口義三の出獄を祝っての歓迎会で閉会を迎えた頃、出席していた左派(直接行動を辞さないという一派)のメンバーが、「無政府共産」「無政府」の文字を縫い付けた赤旗を持ち出して街頭デモの準備を始めた。むろん…
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社会主義者・山口義三の出獄歓迎会で起きた「赤旗事件」
平民新聞は休刊に至ったが、この時から2、3年後、社会主義者、無政府主義者などが絡む事件が起きている。それは国家権力の側が日露戦争後の社会情勢をいかに不安に思っていたかの表れでもあった。日露戦争そのも…
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各新聞のこの体たらく、果たして「彼等、社会の木鐸なるか」と鋭く批判
平民新聞は明治中期の日本社会をかなり正確に伝えている。改めて個々の報道内容を見ていく限り、日本の知識人は意外なほど幅広い知識を求めていて、外国の文献なども意欲的に読んでいたことが明らかになる。逆に平…
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平民新聞の論調 徳富蘇峰が論じた「黄禍論」批判
平民新聞は、一般新聞にはない論調を読者に提示していた。前回説明した無抵抗主義などがその一例である。もうひとつ顕著なのが「黄禍論」についての日本側の反応を批判していることだ。この論点がなかなか興味深い…
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源は明治37年の平民新聞から…「無抵抗主義」を巡る大きな相違点
非戦論は日露戦争の開始前からある程度の勢いで語られていた。しかし日露戦争が決まりきった公式の非戦論を超えて2つの新しい流れをつくった。この流れは大正、昭和にもそのままつながっていた。そのひとつが社会…
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平民新聞が援護した内村鑑三の非戦論 頑迷な批判に総力をあげて反論
平民新聞の説く非戦論と、内村鑑三の主張する非戦論には、どのような違いがあるのか。共に日露戦争に反対して「萬朝報」を退社したわけだが、内村は幸徳秋水や堺利彦の平民新聞の論調とは一線を引き、外国に向けて…
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平民新聞が哲学者・井上哲次郎を徹底批判した「3つの論点」
平民社同人の非戦論、反戦論に対して、最も激しく攻撃したのは2つのタイプに代表される論者であった。ひとつは国粋主義的志向の強い学者、ジャーナリストたちである。もうひとつは宗教家を中心とするグループであ…
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兵士数百人が乱闘で妓楼を全壊したのは「境遇の罪なり」
戦争に伴う不祥事、あるいは戦時下だから起こる犯罪や蛮行は、それほど報じられない。いや、時には全て伏せられてしまうというケースとて珍しくない。特に軍の内部情報や兵士たちの暴動騒ぎなどは新聞で報じられな…
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一般紙が報じなかった日露戦争の提灯行列、20人圧死事故
日露戦争は意外にも日本軍が有利に展開したため、国内では祝賀の空気が高まっていった。平民新聞はそういう空気と対決する姿勢も要求された。非戦論、反戦論は日本社会では弱虫扱いされたのである。 明治…
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東京地方裁判所は平民新聞の堺利彦に「新聞紙条例」違反で禁錮3月の判決を下した
平民新聞の筆禍事件はしばしば法廷に持ち出され、論説などの執筆者は刑を宣告されたが、堺利彦や幸徳秋水なども決して黙ってはいなかった。その裁判の模様を紙面に掲載して読者に忿懣をぶちまけている。裁判所の判…
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そこで一生を終える人も…平民新聞が告発した監獄の悲惨な死者数
平民新聞の編集人、発行人でもある幸徳秋水や堺利彦は、記事が政府批判が過ぎるとしてしばしば検挙され、即決の刑期を受けて監獄に入っている。 月単位で釈放されるのだが、彼らの方も次第に慣れてきて「…
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全国で餓死者が続出した日露戦争の実態 我々の想像よりはるかに過酷だった
日露戦争は、実は日本社会の貧しさや社会的良識の理解がまだ底が浅いということを図らずも教えてくれていた。私たちはその貧しさを一般的な表現で学んでいたのに過ぎなかったが、「平民新聞」を読むとその窮状を具…
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国家権力のもとに出来上がった「非戦論=社会主義者=反国家分子」の図式による弾圧
平民新聞紙上で、幸徳秋水や堺利彦、それに西川光二郎、木下尚江らが過剰に社会主義宣伝を行ったため明治政府の警戒心は高まり、司法界も神経をピリピリさせることになった。言論界でも彼らの非戦論に対する批判や…
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「先生の感化教育は死せざる也」中江兆民を畏敬した幸徳秋水
幸徳秋水は中江兆民を畏敬し、かつ知識人、思想家として自らの師として仰いでいる。兆民が亡くなったのは明治34(1901)年12月13日である。幸徳は18歳の時に、同郷の先輩である兆民を紹介されて書生と…
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非戦を説く中学生への暴力を教師たちが笑って傍観した時代
「平民新聞」を読んでいて、いくつかの事に気がつくのだが、今回はそのうちのひとつのエピソードを語っておきたい。このシリーズの流れでは、閑話休題ということになろうか。 この週刊新聞には、学校関係の…
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外国人はスパイであると思え 平民新聞を狙った過剰な「露探」キャンペーン
日露戦争が始まる前、あるいは始まってからも一般新聞には「露探に注意せよ」という記事がしばしば掲載された。むろんこれは陸軍省などが、戦意高揚の一端として、意識的に流す啓蒙でもあった。そういう時に平民新…
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「平民新聞」は政府にとって厄介な社会改革を目指す機関紙だった
編集部に2部屋を使い、そしてこの部屋は自分たちの心の休息所にもしたいと考えて、部屋の模様や調度品をどうするか考えたというのだ。幸徳夫人が植木鉢を持ち込んだ。近所の人がやはり杉の樹立の鉢を提供してくれ…