現役最年長92歳 桂米丸大いに語る
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真面目にやっても報われない時、天を恨んだこともあった
米丸が師と仰ぎ、芸人としてさまざまなことを教えられたのは、師匠の古今亭今輔(先代)と柳家金語楼である。 「金語楼師匠は有崎勉のペンネームで書いた作品が数えきれないほどあります。噺の面白さだけで…
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「訃報に接するたび落ち込むんです」初めて表情が曇った
平成14(2002)年4月、横浜市野毛に常打ちの寄席、横浜にぎわい座がオープンした。市の外郭団体が経営し、館長は歌謡曲の司会でおなじみの玉置宏さん(22年没)。横浜は米丸が生まれ育った思い入れの深い…
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23年務めた会長職を勇退 「役員会が終わってホッとした」
平成4(1992)年、米丸は紫綬褒章を受章する。 「この時、初めてあたし個人のパーティーを開きました。山藤章二さんに似顔絵を描いていただき、それを手拭いに染め抜いて皆さんにお配りしました。山藤…
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自宅に寄席創設「永先生のような方の援助で続けられた」
昭和59(1984)年8月、鈴本演芸場と絶縁した落語芸術協会は3カ月後、JR御徒町駅前の吉池デパート7階に寄席をつくり、単独興行をすると発表した。 「吉池デパートの社長さんが、『うちの7階を使…
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鈴本演芸場事件 「あたしの家を出たその足で移籍の相談」
都内の寄席は落語協会と落語芸術協会が10日ごとに交互で興行する習わしだ。ところが昭和59(1984)年、鈴本演芸場の席亭から「両協会の観客動員に開きがありすぎるので、芸協の興行に限り、てこ入れ策とし…
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米丸門下の米助と小遊三、竹丸、昇太と「新星」が現れた
落語芸術協会会長としての課題は、寄席に客を呼べる若手の人気落語家を育てることだった。就任以来なかなか育たなかったが、ようやく新星が現れた。米丸の弟子の米助と三遊亭小遊三の2人である。 「昭和5…
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総理大臣から指名も 「落語を聞けば国民の考えが分かる」
落語協会分裂騒動でははからずも敵対する立場になった米丸と三遊亭円生だが、以前はよく一緒に仕事をしたという。2人で大阪に行った際、空き時間に映画館で「風と共に去りぬ」を見た。4時間の大作を見終わると円…
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就任直後に協会分裂騒動が勃発 「割を食うのはまっぴら」
落語芸術協会(以下芸協)会長に就任した時の米丸門下は、今輔の弟子だった歌丸、昭和42(1967)年に入門した米助、45年入門の富丸、49年入門の幸丸、4人であった。弟子が増え、会長として「さあ、これ…
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51歳で落語芸術協会の会長に 「まさか23年もやるなんて」
昭和51(1976)年12月10日、米丸の師匠、5代目古今亭今輔が亡くなった。6代目春風亭柳橋の後を引き継ぎ、日本芸術協会(52年に社団法人落語芸術協会と改める)の会長に就任して2年9カ月後のことで…
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道を歩いていると子供が「あ、タンメンのおじさんだ」
昭和30年代の落語界は古典落語至上主義の評論家が発言力があり、新作落語は「邪道」として認めなかった。久保田万太郎、安藤鶴夫といった偉い先生方である。東横落語会などのホール落語の出演者を選定するのは彼…
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レギュラー7本も 寄席の合間にテレビやラジオの生放送
米丸はラジオで演じる新作落語を作るにあたって、とにかく身近なものを題材にしたネタを心掛けた。ヒントになったのが古典落語の「相撲風景」で、大相撲の観客をスケッチしたネタだ。 「起承転結のある一席…
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入門3年目で真打ち出世 ラジオの開局ラッシュも重なり…
昭和24年4月、米丸は真打ちに昇進した。なんと入門3年のスピード出世である。当時の新聞に「落語界に新風! 大抜擢」と書き立てられた。 「いくら落語家の数が少ない時代とはいっても、異例中の異例で…
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売れるまで苦労した先代の教え 「芸人は売れなきゃだめ」
1946(昭和21)年正月、横浜出身の須川勇青年は都立化学工業専門学校を卒業後、落語家になるべく日本芸術協会(後に落語芸術協会)の古今亭今輔(先代)の門をたたいた。当時はまだ戦地から復員していない落…
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現役最年長92歳 「人工知能やドローンもネタにしたい」
桂米丸は1925(大正14)年生まれの92歳。現役最年長の落語家である。落語芸術協会会長を23年間務め、現在は最高顧問。今も月に10日は寄席に出演し、入門以来演じ続けた新作落語を高座にかけている。 …