俺の頭はなぜデカイのか
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<最終回>金本は自分が考えたようにやったらええんよ
08年に阪神の監督を辞めたのは優勝できなかったからだ。それだけよ。俺は2位や3位になってもクライマックスシリーズ(CS)を勝ち抜くなんて考えは、これっぽっちもなかった。144試合戦って、優勝するため…
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<第39回>負け癖ついたオリを完全には変えられなかった
2010年から監督やったオリックスでは一度もAクラスに上がれんかったが、チームはずいぶん変わった。交流戦に優勝し、前年に30(56勝86敗2分け)もあった借金は2(69勝71敗4分け)まで減らした。…
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<第38回>阪神とオリックスに対する周囲の目はまるで違う
俺は、選手でも監督でも両方の球団にいたからわかるんやけど、阪神に比べてオリックスはマスコミの扱いがまるで違う。特に関西のスポーツ紙は、勝っても負けても阪神を大きく報じ、オリックスの記事は少ない。 …
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<第37回>原監督が辞めた時「二軍監督やったら」と助言した
原監督が退任した。まずはお疲れさまだな。阪神の監督やってた時は3年間戦った。オリックスの時も交流戦で対戦した。巨人の監督もマスコミにいろいろ書かれるけど、通算12年でリーグ優勝7回、日本一3回。指揮…
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<第36回>監督はわがまま助っ人になめられたらあかんのよ
外国人選手にもいろいろなタイプがおるけど、手を焼いたのは阪神時代のボーグルソン(2007~08年、現SFジャイアンツ)やな。序盤はええボール投げて抑えるんやけど、打順が2回りするとつかまるケースが多…
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<第35回>ベンチで落合監督がニヤッとしたら「しめた!」と…
今はゼネラルマネジャーになった落合(博満)さんが監督の時は、腹の探り合いだった。 まずは先発隠しだ。12年から予告先発になって面白くなくなったけど、07年のCS第2ステージでは、巨人が中日の…
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<第34回>監督の時は帽子のサイズが2センチも大きくなった
連載のタイトルについて疑問を持っている読者が多いそうなので、今回はその話をしようか。 俺の頭はずいぶん寂しくなったけど、現役の時はもっと髪の毛があって黒々としてたんよ。帽子のサイズは56.5…
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<第33回>俺が監督辞めんかったら三浦大輔は阪神に来たはず
今季前半のセ・リーグを盛り上げたのは広島とDeNAだった。DeNAのエースは三浦大輔やけど彼とはちょっとした縁がある。 俺の親父は大阪の玉造で紙加工の会社をやっていたから、近所の商店街の人た…
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<第32回>JFK誕生のきっかけはアテネ五輪だった
井川(慶)は06年オフ、5年連続2桁勝利を達成し、3年越しで直訴していたメジャー移籍を容認された。本当は前の年行くはずだったみたいだが、1年遅らせたみたいやな。 井川という投手は貴重な存在や…
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<第31回>ホームラン打者の夢捨てて1億円選手になった関本
今季で引退する関本(賢太郎)は、俺が二軍コーチとして阪神に戻ってきた時は2年目の選手やった。身長186センチで堂々たる体格でな。名門・天理高出身の大型内野手で、バットを長く持ち、ヘッドが投手の方に入…
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<第30回>先発で結果が出ない球児は放出要員だった
二軍監督やってる時に期待感をもったのは、関本(賢太郎)、浜中(治)、井川(慶)。みんな鳴尾浜で汗を流し、成長していった。芽が出ない二軍時代から応援していた選手が、甲子園で脚光を浴びるまでに成長すれば…
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<第29回>北京五輪から戻ってきた新井の骨折は痛かった
今年、8年ぶりに古巣に戻った新井(貴浩)は一塁を守っている。かつて広島では三塁をやっていたが、阪神が07年オフに獲得。俺はすぐに「ファーストミットをつくれ」と言った。 理由は守備や。12球団…
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<第28回>鳥谷の獲得は俺の人脈が役立った
金本(知憲)が移籍してきて一番影響を受けたのは鳥谷だろう。ゲームが終わっても鏡の前で素振りをする金本の姿に刺激され練習量が増えた。主力やベテランの汗を流す姿を見れば若手は真似をする。鳥谷を見て、また…
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<第27回>移籍直後の金本が4番を断ったのは…?
03年に三塁コーチになった俺は、あることに気付いた。2番の赤星が塁に出ると、3番の金本は盗塁するまで待っている。赤星が二盗を決めると、今度はレフトへヒットを打てるのに、無理に一、二塁間へ引っ張る。赤…
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<第26回>星野監督でも阪神ファンの重圧で体を壊した
星野(仙一)さんの監督就任が決まって初めて会ったのは名古屋のホテルやった。上坂(太一郎)の結婚式に出席していたら、そこへ星野さんが突然現れたからみんなビックリよ。同じホテルで阪神の関係者と会っていた…
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<第25回>野村さんとは選手に対する考え方が根本から違った
阪神の二軍監督の時は野村(克也)さんとの関係でいろいろ言われた。野村さんとは話をせずに報告ばっかりやったから、コミュニケーションが取れんかったのは事実だ。 野村さんは一度も二軍の試合は見にこ…
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<第24回>新生オリックスの監督になった仰木さんと久々に
93年は阪神から戦力外通告を受け、暮れから新年にかけてはプライベートのゴタゴタ(恐喝被害)などで参っていた。でも、毎日大阪城公園のグラウンドを走り、バットも振っていた。仰木監督から声がかかり、オリッ…
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<第23回>「タイガース最後の日」は涙が止まらんかった
92年4月25日の中日戦。7番一塁でスタメン出場すると、1点リードの五回、1死満塁のチャンスに打順が巡ってきた。ネクストバッターズサークルから打席に向かおうとすると、中村(勝広)監督に呼びとめられ亀…
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<第22回>村山監督がチームをガラリと変えて暗黒時代に突入
85年に日本一になった阪神も、翌年は優勝争いに絡めず3位。87年は首位巨人に37.5ゲーム差、5位の横浜大洋にも15ゲームも離され勝率は.331。屈辱の最下位で吉田監督は退団。同年オフ、村山(実)さ…
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<第21回>優勝してウイニングボールを中埜球団社長に捧げた
マジック1で迎えた神宮のヤクルト戦に引き分けて、21年ぶりの優勝を決めると、選手は声を詰まらせた。俺も自然と涙が出てきた。スタンドのファンも泣いていた。神宮は早大時代に優勝した思い出の球場というのも…