俺の頭はなぜデカイのか
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<第20回>バースとの首位打者争いでは巨人の「敬遠攻め」に
85年は自分でもよう打ったと思う。資料を見ると、8月は打率・429、10本塁打、31打点。9月は15、16日、サヨナラ弾にサヨナラヒットと続けた。16日は打率・361でバース(.360)の上にいた。…
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<第19回>伝説のホームランは読み通りやったけど…
阪神が日本一になった85年といえば、伝説となっているのがクリーンアップの3連発だろう。 4月17日の巨人戦(甲子園)、2点を追う七回2死一、二塁だった。まず3番バースが槙原(寛己)の初球をバ…
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<第18回>吉田さんはイメージと違う腹の据わった監督だった
中西(太)体制になって5位、3位。プロ3年目の82年から監督になった安藤(統男)さんは「負けない野球をします」というてたけど、ピンとこなかった。83年にバースが入団。久しぶりにいい外国人選手が来たな…
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<第17回>クビになったヒルトンを追うようにブレイザーも退団
80年シーズンが開幕して初の巨人戦やった。カケ(掛布雅之)さんが走塁で左ひざを痛め戦列を離れることになった。俺は翌日の試合前、三塁でノックを受けたが、スタメンは外野が専門の佐野(仙好)さんだった。後…
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<第16回>ヒルトンのおかげで1年目キャンプは守備たらい回し
78年にヤクルトの日本一に貢献したヒルトンも79年は成績が落ちて退団。ブレイザーの希望で阪神が獲得し、アリゾナのキャンプ地に現れた。 その年は、横浜大洋(現DeNA、メサ)とヤクルト(ユマ)…
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<第15回>ブレイザー監督は「新人は1年目から使わない」と
入団発表もしてないうちから、自宅周辺には連日新聞記者が来るようになった。入団交渉は玉造の実家で行った。その後の記者会見は自宅の2階でやった。床が抜けるんやないかと思うほど大勢の記者とカメラマンの数だ…
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<第14回>良く考れば1位指名の阪神は1番悪い球団やないかと
79年のドラフトは逆指名がなく、指名は4人まで。どの球団もいろんな戦略を立てていたのだろう。長嶋監督が前日に「1位指名する」って電話くれた巨人も、当日は社会人左腕の木田(勇=日本鋼管)さんを指名。日…
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<第13回>ドラフト前日、長嶋監督から電話がかかってきた
大学4年の秋は明治が優勝。早大の3連覇は阻まれた。その後、周囲はドラフトの話題で持ちきりだった。早大からは俺と3番を打った島貫(省一・外野手)に、4年春に首位打者(.500)になった5番有賀(佳弘・…
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<第12回>日米大学野球の宿舎で島岡さんとサシで飲んだ
3年秋と4年春に連覇してわかったことがある。春の優勝の方が感激が大きいことだ。それはやっぱり、直後に全日本選手権に出られるし、JAPANのユニホームを着て日米大学野球に出られるチャンスも広がるからな…
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<第11回>優勝パレードでも宙を舞いユニホームには口紅が
78年秋の早慶決戦の時は、親父が高田馬場に宿をとって、神宮に通っていた。おふくろは2回戦の時に大阪からバスを借り切ってくるはずやったんやけど、雨で試合が1日延びてバスはキャンセル。優勝した日は「近所…
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<第10回>26年ぶりの完全優勝かけての早慶戦は大盛り上がり
江川投手の他に、袴田(英利)、植松(精一)、島本(啓次郎)、金光(興二)といった、いわゆる「花の49年組」が卒業して法大の力もガクッと落ちた。 78年春季リーグ戦は、明大が優勝。法大の連覇を…
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<第9回>江川投手との初対決は3安打 その後はバケモンやった
「これはバットに当たらんわ」 怪物右腕のボールを初めて見たときそう思ったわ。俺が早大に入った76年の春から、法大は黄金時代に入った。何しろ翌年の秋まで4連覇。エースは、「神宮の怪物」といわれた…
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<第8回>初めての軽井沢合宿はノックの雨でゲッソリよ
早大野球部の夏合宿は7月20日から8月20日までの1カ月間。秋のリーグ戦に備えて、選手は涼しい軽井沢でみっちり絞られる。 軽井沢のグラウンドは一年に1回、この時期にしか使わないから、先発隊が…
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<第7回>早大合格の一報は新幹線で オヤジと缶ビールで祝杯
新幹線に電話かけてくるなんてよほどのことやろ。おふくろか親戚に何かあったと思うわな。電話かけてきたのはおふくろだった。 「そうか、そうか」 受話器を耳にあてると、こわばっていた親父の顔…
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<第6回>早大セレクションは10スイング中7本が場外へ
子供の頃から早稲田で野球をやるのがひとつの夢やった。小学生の時にテレビで見た早慶戦で、あのユニホームに憧れた。 高校野球が終わると、野球部の友人と天王寺にある予備校の夏季講習に行き出した。実…
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<第5回>出場確実だった2年のセンバツは辞退。3年夏は…
高校時代の話をもう少し続けよか。 1年秋からエースで4番の俺は肩壊して調子が上がらんこともあったけど、ほんとうなら2年生の春の選抜は行けるはずだったんだ。が、これもある「事件」でダメになった…
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<第4回>進学先を北陽高に変えたらいきなり甲子園キップを
明星中3年の時、大阪府大会で優勝した。その夏、系列の明星高校は甲子園出場を決めベスト8まで進んだ。俺はアルプス席で大声出して応援したよ。 年が明けて1月には明星高の練習に参加した。練習試合に…
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<第3回>引退試合前の村山さんの肩慣らしの相手したんは俺よ
ザトペック投法で昭和37、39年の優勝に貢献した村山(実)さん。37年の投球回数を見ると57試合で366と3分の1イニングも投げている。今では信じられんわな。39年に優勝した時は、親父が心斎橋の中国…
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<第2回>芸能誌に島倉千代子さんの「隠し子」って書かれたな
本格的に野球を始めたのは5歳。南海(現ソフトバンク)の「リトルホークス」に入ってからだ。南海のチームに入ったのは、阪神に少年野球のチームがなかったからや。 親父は俺をプロ野球選手にしたかった…
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<第1回>紙加工業を営んでいた親父は阪神のタニマチだった
9月3日は親父(勇郎)の命日。この時期はいろんなことを思い出す。亡くなったのは86年。阪神が日本一になった翌年。56歳だった。日本一の時は、工場の前で近所の人に樽酒をふるまってな。親父ほんまに喜んで…