語り部の経営者たち
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ヤマハ中田卓也社長<6> 事業部制から機能別体制へと変更
2013年6月、社長に就任すると、最初に着手したのが、事業部制の廃止だった。 「私が入社したころには、もっとフラットだったんです」 事業部制が敷かれたのは、中田社長が入社して2年後の8…
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ヤマハ中田卓也社長<5> エルトン・ジョンの生演奏を配信
2010年、ヤマハ・コーポレーション・オブ・アメリカの社長に就任する。 在任中、ヤマハの創業125周年記念コンサートを開催することが決まった。欧米の企業は、25年ごとに記念イベントを開催する…
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ヤマハ中田卓也社長<4>アコースティックとデジタルの融合
42歳のとき、業務用音響機器(PA)と電子楽器(DMI)が合併してPA・DMI事業部が発足。中田卓也社長(58)は、新事業部の副事業部長に就任する。 電子楽器事業部は、ヤマハの屋台骨となるよ…
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ヤマハ 中田卓也社長<3> 大ヒット商品を生んだこだわり
1980年代後半、演奏データを入力するだけで気軽に作曲や演奏を楽しめる装置「シーケンサー」は、安売り戦略を推し進める後発メーカーにシェアを奪われていた。 30歳のとき、中田社長は商品開発のプ…
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ヤマハ中田卓也社長<2> コンピューター事業の第1期生に
中田社長は、多くの新人が経験する営業部署に所属したことがない。それは、入社後に配属されたのが、ヤマハが初めて取り組んだコンピューター事業の部署だったことに依拠しているといっていいだろう。 配…
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ヤマハ中田卓也社長<1>ツェッペリンに衝撃受けた中高時代
ヤマハは、100種類以上の楽器を製造する世界最大の総合楽器メーカーだ。専業が多い楽器業界の中にあって、世界的にも稀有な存在として知られている。ピアノの売上高では世界シェア第1位を誇る。 浜松…
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シンワアート倉田陽一郎社長<3>原因不明の奇病に襲われる
東大経済学部4年の倉田氏が就活に臨んだのはバブル真っただ中のころ。完全に売り手市場だった。 「投資の仕事がやりたかったので金融機関を回ったんですが、東大の学生は扱いが違うんです。向こうも必死に…
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シンワアート倉田陽一郎社長<2> 東大では美術やバイクに熱中
高校3年になってから一念発起して東大を目指し、理科Ⅱ類に見事、現役合格を果たした倉田陽一郎氏。大学では美術サークルに入った。 「幼い頃、内向的な性格だったボクは絵を描くのが好きで、両親に連れら…
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シンワアート倉田陽一郎社長<1>美術品取引で唯一株式上場
我ら一般人が美術品を入手するには、美術商が仕切る百貨店の展示会などで購入するケースがほとんど。売却する場合も美術商を通す以外に方法はなく、一方的に価格が決められてきた。一部の業者に牛耳られているこう…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<7> 私は社長兼営業本部長
國廣喜和武は1998年9月、サッポロビール東京支社の特約店営業部長になった。着任して1週間目、ゴルフコンペで大手問屋の大物会長が、生まれて初めてのホールインワンを成し遂げてしまう。前例はなく、どう対…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<5>問題解決の糸口は社外に
國廣喜和武がサッポロビールの富山支店長に就いたのは1995年10月。辣腕営業マンだった國廣は、管理職である支店長になった途端、精彩を欠いてしまう。富山支店には営業マンが5人いたが、意思の疎通を図れな…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<5>初の支店長で試練に直面
決して酒に強いわけではないのに、サッポロ社内でトップセールスマンに上った國廣喜和武。嘔吐を重ねながらも、深夜まで営業先で酒を飲む。天真爛漫な性格と持ち前のバイタリティーとで、相手の懐に飛び込んでいく…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<4> デキる営業マンの証し
1979年、サッポロビールに入社した國廣喜和武。最初の赴任地、名古屋から、東京の営業部に異動したのは1985年。2年間、大田区を担当した後、87年から渋谷区の家庭用と業務用の営業となる。 8…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<3> 新人時代の企画が成功
1979年、横浜国大を卒業してサッポロビールに入社した國廣喜和武は、名古屋で営業に従事する。 当時、サッポロは千種区に工場を持っていたため、名古屋のシェアは3割にも達していた。問題は、清涼飲…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<2>卒業前に担当教授が一言
横浜国大の4年生の時、國廣喜和武は就職先として総合商社を希望し、数社訪問していた。当時、横国大から総合商社に入る学生は多かった。 ところが「入社できるのは2浪まで。3浪はダメ」。どうやら総合…
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ポッカサッポロ國廣喜和武社長<1> 横国大「3浪しました」
「神奈川県立希望ケ丘高校に入学したころ、東大紛争があり東大の入試が中止されました。大学紛争は高校にも飛び火し、高校紛争も始まりました。自分たちも、通信簿をなくし、制服をなくしました。高校のすべての自治…
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ROBOT加太孝明社長<4> CMも映画も同じフィルムという発想
加太社長にとって、一番思い出深いのは、映画「Love Letter」(1995年公開)だという。ROBOTが初めて挑戦した長編映画で、加太社長は、この作品の包括的なプロデュースやマネジメントを担当し…
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ROBOT加太孝明社長<3> 大変なときこそ一番楽しいときだ
1989年、ROBOTに入社。当時はまだ社員15人程度の小さな会社で、第一企画とは規模が違い過ぎた。代理店から制作プロダクションに移るケースは珍しく、周囲の人たちにはかなり不思議がられたという。 …
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ROBOT加太孝明社長<2> 広告代理店でJTの「CABIN」を担当
加太社長が大学を卒業した1979年当時は、テレビメディアが隆盛を極めていた。テレビCMは単なる商品宣伝だけではなく、社会的に大きなメッセージ力を持つまでになっていた。 広告代理店の第一企画(…
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ROBOT加太孝明社長<1> 「つみきのいえ」がアカデミー賞に
ROBOTは、テレビCM、映画、アニメ、WEB、グラフィック、ゲーム、キャラクター開発など多彩なエンターテインメント事業を手がける制作プロダクションだ。 オモチャ箱をひっくり返したような楽し…