五木寛之 流されゆく日々
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連載11814回 昔ばなしの喪失 <5>
(昨日のつづき) 生成AIと宗教の問題に関しては、簡単にまとめるわけにはいかないので他日に回す。 宗教以外にチャットGPTの泣きどころはどこにあるのか。 人は「昔ばなし」をしたがるものだ。…
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連載11813回 昔ばなしの喪失 <4>
(昨日のつづき) チャットGPTをめぐる論議は一向におさまる気配はない。 これを簡単に<人工知能>と言うべきか、<対話型AI>と呼ぶか、<生成AI>と称するのか、表現がさまざまなので、ややこ…
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連載11812回 昔ばなしの喪失 <3>
(昨日のつづき) 歴史を語る言説は、私たちの周囲に氾濫している。 新聞の広告を眺めても、いわゆる古代史から現代史にいたるまで、無数の本が出版され、広く読まれている。 しかし、歴史と昔ばなし…
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連載11811回 昔ばなしの喪失 <2>
(昨日のつづき) では、面白かった回顧談の事を思い返して書いてみよう。これも昔ばなしの一種にはちがいない。 かつて私がリトルマガジン『面白半分』の編集長をつとめた頃、雑誌に金子光晴さんの昔ばな…
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連載11810回 昔ばなしの喪失 <1>
年寄りの話が一般におもしろくないのは、自慢話が多いからだ。 本人は自慢している気はなくても、聞いているほうからすると自慢ばなしにきこえるらしい。 最近、話題になっている<文節の終りにつける「…
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連載11809回 カタカナ英語の時代 <4>
(昨日のつづき) 「尾崎紅葉の名前ぐらいは知ってるよな」 「ああ、あれですね、コンジキヤマタの作者でしょう?」 「まあ、とにかく、その紅葉が弟子の泉鏡花にあてた手紙というのを見たんだが、これはテ…
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連載11808回 カタカナ英語の時代 <3>
(昨日のつづき) 「チャットGPTとか、ポリコレとか、まだそんなことを気にしてるんですか」 と、若い友人のY君に笑われた。 「いまやジャーナリズムの話題は、マルテン問題に移ってます。三日見ぬ間…
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連載11807回 カタカナ英語の時代 <2>
(昨日のつづき) 先日、新聞のオピニオン欄に、あるかたの論文というか寄稿がのっていた。経済に関する意見である。 興味ぶかく読んだのだが、その筆者の肩書きが、めっぽう長くてややこしい。 <○○…
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連載11806回 カタカナ英語の時代 <1>
『言語の本質』(中公新書)がバカ売れしたのは、大きなニュースだった。ちゃんとした学問的な本でも、それを読む人たちが沢山いるのだ。出版界にとって明かるい話題だったと思う。 それだけではない。その本の…
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連載11805回 今世紀最強の怪物 <4>
(昨日のつづき) 今世紀最強の怪物が、生成AI(チャットGPT)であることは間違いない。今日の朝刊にも、新しい芥川賞の作家が、どのようにチャットGPTを利用したかについてくわしく語った記事が大きく…
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連載11804回 今世紀最強の怪物 <3>
(昨日のつづき) 生成AI(チャットGPT)のことを、今世紀最強の怪物、などと書いていたら、それにもまさる怪物が出現した。 今朝、起きた時から、やたらと鼻水がでる。垂れるなんてもんじゃない。流…
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連載11803回 今世紀最強の怪物 <2>
(昨日のつづき) チャットGPTは、単なる便利な機械ではない。 生成AIには、知識は無限にあっても、知性はない、という意見がある。しかし、知性も、知識の積み重ねのなかから生成されるものである。…
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連載11802回 今世紀最強の怪物 <1>
このところチャットGPTに関する論議がにぎやかだ。 いよいよそこまできたか、という感じで、もの書きとしては何か言わずにはいられない感じになってきた。 このAIについては、かなり以前から意見を…
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連載11801回 私の感覚的養生論 <9>
(昨日のつづき) 今週は養生について、あれこれ偉そうなことを書きつらねた。 なんの科学的エビデンスもない我流の遊びみたいなものである。面白いからやっている、としか言いようのない「体のお手入れ」…
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連載11800回 私の感覚的養生論 <8>
(昨日のつづき) おもしろい事に、体の各部は、どこかで連動しているようだ。 朝、いつものようにベッドの中で手の手入れをしていると、グウ、と胃腸が鳴る。ときにはキュッとか音を立てることもある。い…
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連載11799回 私の感覚的養生論 <7>
(昨日のつづき) 石川啄木の歌は抒情的というより、生活の実感がこもっていて、そこがいい。 <働けど 働けどなおわが暮し 楽にならざり じっと手を見る> みたいなやさしい歌は、できそうでいてな…
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連載11798回 私の感覚的養生論 <6>
(昨日のつづき) この数日、なんとなく胃の調子が悪い感じがした。胃酸がこみあげてくるような気配もする。 とりあえず食事に気をつけるようにした。自分でできることは知れている。食事の量を少し控え、…
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連載11797回 私の感覚的養生論 <5>
(先週のつづき) 今どき自分の感覚にたよって身体をケアするというのは、お話にならない古い養生法だろう。数回の検査で、簡単に診断する時代なのだ。 それはいやというくらいにわかっているつもりである…
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連載11796回 私の感覚的養生論 <4>
(昨日のつづき) 自分の体の声をきく、というのは私が昔からずっと言い続けてきたことだ。 私はそれを勝手に<身体語>と呼んできた。体は私に対して文句を言ったり、弱音を吐いたり、時にはオドしたりす…
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連載11795回 私の感覚的養生論 <3>
(昨日のつづき) 故障のない体を維持するのが健康法で、いろいろ問題を抱えている体を、なんとか維持していこうというのが養生である。 いわばマイナスの発想にもとづく対処法といっていい。 もちろ…