五木寛之 流されゆく日々
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連載11616回 深夜の時代の終り <4>
(昨日のつづき) このコラムの冒頭に<昨日のつづき>という言葉が置かれている。 この短いコピーに、思わずニヤリと苦笑なさる旧世代の読者が、はたして何人おられるだろうか。 かつて深夜のラジオ…
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連載11615回 深夜の時代の終り <3>
(昨日のつづき) コロナが、5類に格上げだか格下げだかになるという。よくわからないが、普通のインフルエンザ並みに扱うということだろうか。 テレビでは、居酒屋やレストランなどのテーブルのアクリル…
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連載11614回 深夜の時代の終り <2>
(昨日のつづき) 東京の夜が異様な輝きに満ちはじめていたのは、いつ頃からのことだろうか。 1950年代の東京の夜は、赤坂の豪華なナイトクラブとか、銀座のバー、新宿の飲み屋街や深夜喫茶、中央線沿…
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連載11613回 深夜の時代の終り <1>
朝寝、夜更かしの生活が、コロナの蔓延とともに変ったことは何度も書いた。 仕事でやむをえない時以外は、夕方に起きて明け方に眠りにつく日常だったのである。 作家生活をはじめてからは、それがますま…
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連載11612回 人工知能と会話する日
このところ<対話型人工知能>のニュースが、しきりにジャーナリズムをにぎわせている。<チャットGPT>とかいう画期的なAIらしい。 おおかたの関連記事を眺めただけでも、これはタダモノではないという…
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連載11611回 暗愁のゆくえ <5>
(昨日のつづき) いま、ロシアについて語ることは、きわめて困難な状況にあると言っていいだろう。 それは19世紀ロシア文学に象徴されるロシアへの深い共感と、現在のロシアの政治的行動への強い反撥と…
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連載11610回 暗愁のゆくえ <4>
(昨日のつづき) 井筒俊彦氏の『ロシア的人間』が弘文堂から刊行されたのは1953年の2月である。私がまだ大学1年生の頃だ。 しかし実際に執筆にかかったのは、それより5年ほど前のことだったという…
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連載11609回 暗愁のゆくえ <3>
(昨日のつづき) 『ロシア的人間』の著者である故・井筒俊彦氏の半世紀前の言葉は、まさにロシアがウクライナに侵攻し世界を震撼させた近年の現状を予告しているかのようだ。 そして誰もがロシアについて語…
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連載11608回 暗愁のゆくえ <2>
(昨日のつづき) 書評というのは難しい仕事だ。作品によりそって説明しなければならない。自分の意見も述べなければならない。そしてその上、まだ未読の読者にぜひその本を読んでみたいという気持ちをおこさせ…
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連載11607回 暗愁のゆくえ <1>
暗愁、という言葉がある。故・小島憲之さんの『ことばの重み』(新潮新書)の中で丹念に説明されているが、どうやら古代に中国からさまざまな文物にまぎれこんで渡来したものらしい。 哀愁でも、旅愁でも、郷…
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連載11606回 歩くための技法 <5>
(昨日のつづき) 歳をとると、どうしても姿勢が悪くなる。前かがみになって、小股でチョコチョコ歩きになりがちなのだ。 歩く姿勢を良くするにはどうすればいいか。やたらと胸を張ってシャチこばったとこ…
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連載11605回 歩くための技法 <4>
(昨日のつづき) いろんな解説書に、歩き方の基本としてこんなことが説かれている。 <足の運びは、踏みだした足を踵から着地するのが基本> 要するにスリ足はいけない、というわけだ。前方に振り出し…
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連載11604回 歩くための技法 <3>
(昨日のつづき) 飛行機やクルマ、鉄道などを利用して移動しても大変だった行程を、紀元前数百年前、ブッダは徒歩で移動したのだ。 そして晩年、その旅の途上で食中毒で倒れる。彼が行き倒れた雑木林を訪…
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連載11603回 歩くための技法 <2>
(昨日のつづき) ブッダが偉い人であったことは、よくわかっている。小国といえども支配者の地位を捨て、放浪の旅にでた。出家したわけではない。なにか新しい人生を求めて、放浪の旅に出たのだ。出家ではなく…
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連載11602回 歩くための技法 <1>
私たちは、ふだん何気なく歩いている。 歩き方を教わったわけでもないし、自分で工夫するわけでもない。 大部分の人は、ごく自然に、無意識に歩いているのだろうと思う。 べつにそれで不自由はなく…
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連載11601回 『面白半分』という時代 <5>
(昨日のつづき) 『面白半分』みたいな雑誌が存在するということは、その社会が多様性に富んでいるということだ。余裕がないと一色になる。戦時中のこの国がそうだった。あの時代に『面白半分』などと称したら、…
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連載11600回 『面白半分』という時代 <4>
(昨日のつづき) 『面白半分』の編集長をつとめて、私のやったことといえば『腰巻大賞』を作ったくらいだろう。 かねがね新刊のオビを厄介に思っていたのだ。だが編集者に「オビはつけないでくれませんか」…
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連載11599回 「面白半分」という時代 <3>
(昨日のつづき) 西洋人のモノと日本人のモノのちがいを、<日本人のモノは構造的でカザリが多い>というのは、具体的にどういうことだろうか。 金子光晴さんの『随筆』ならぬ『随舌』は、とどまるところ…
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連載11598回 「面白半分」という時代 <2>
(昨日のつづき) 『面白半分』誌の創刊1号と、廃刊臨終号を送ってくれたのは、私の郷里の八女市のMさんである。 Mさんは長年にわたって、いろいろと私に貴重な資料をみつけては送ってくださっていて、八…
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連載11597回 「面白半分」という時代 <1>
むかし『面白半分』という雑誌があった。 「ハーフ・シリアスということだな」 と、吉行淳之介さんは言っていた。 面白さ一辺倒ではない。さりとて真面目全部でもない。中途半端を最初から打ち出した…