森昌子!走る
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<第20回>自由に言いたいことを言い歌いたい歌を歌う幸せ
歌の世界に入ってから、もう45年が経ちました。途中で20年ほどお休みもいただきましたが、これからはそれこそ、「声の続くかぎり」歌い続けたいと思っています。 今は、自分から積極的に「次はこうい…
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<第19回>自殺を思う瞬間も…更年期克服は家族のおかげ
皆さんのバックアップのおかげで、ありがたいことに復帰後も仕事は忙しく続きましたが、私はなかなかペースがつかめず、復帰後わずか1年で体調を崩し、急性肺炎で入院してしまいました。ちょうどその頃からでしょ…
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<第18回>復帰会見と同時刻に息を引き取った病床の父
離婚後、06年の3月27日に復帰会見をさせていただきましたが、その2年ほど前に脳内出血で倒れて以来、意識もない脳死状態だった父が、その日の夜に亡くなりました。意識がなくても生きていてほしいと延命措置…
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<第17回>離婚は慰謝料ゼロで合意したのに報道では…
離婚は大きなニュースとなり、取材陣に注目され、周囲が騒がしくなりました。三男はまだ小学生だったので、心配だった私は学校まで送ることにしたのですが、2人で電車に乗ると「森昌子・強欲女7億円」というよう…
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<第16回>1年限定「夫婦ジョイントコンサート」のはずが…
子育て中心の生活に変化が起きたのは2001年のことです。引退してからも毎年オファーをいただきながらお断りしてきた大晦日の「紅白歌合戦」に、記念の年だから……ということで「ミレニアムゲスト」として出演…
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<第15回>高校生になる頃には自主性を尊重する放任主義に
子供たちには私が“歌手の森昌子”だったことは一切言っていませんでした。この話をすると不思議に思われることが多いのですが、私はただ子供たちに対して、「あなたたちだけのお母さんなのよ」という気持ちで接し…
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<第14回>子育てで心がけたのは「しつけ、経験、自立」
ようやく自分が思い描いていたような結婚生活が送れるようになったのは、最初の子供がお腹に宿った頃でしょうか。相変わらず、取材陣には産婦人科の検診に通うたびに病院のロビーで写真を撮られたり、散歩に出るだ…
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結婚を発表して1年半先までの仕事を前倒し。1日3回公演も
婚約と引退を発表したのは86年6月8日、それからが大変でした。結婚式は10月の予定でしたが、8月末と決めた引退までの約3カ月の間に、1年半ほど先までの予定で頂いていたお仕事を全部、前倒しでやることに…
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<第12回>進路に悩み 高校を卒業して初めての1カ月の休み
私にとって結婚は子どもの頃からの夢でした。 母は昔から体が弱く、小学生の頃は運動会にも来てもらえないほどで、子ども心にずいぶん寂しい思いをしました。だからでしょうか、自分がもし母親になるのな…
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<第11回>両親にだけは「これが最後」と伝えた85年の紅白
NHK「紅白歌合戦」にはデビュー翌年の73年から引退するまでの13年間連続で出場させていただきました。23歳では初めて紅組のトリで歌うことができ、歌手として一人前になれたような、充実した気持ちを感じ…
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<第10回>今度は「おばさんトリオ」で一緒にやりたいね
「百さん」(山口百恵さん)が21歳で引退し、家庭に入ると聞いた時は驚きました。「淳ぺい」(桜田淳子さん)の結婚も驚きがありましたが、一緒に一時期を過ごした同士として、「結婚おめでとう!」という気持ちで…
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<第9回>生放送中に事件 “天然キャラ”桜田淳子との思い出
「淳ぺい」(桜田淳子さん)は、おちゃめな“天然系”でした。たとえば3人揃ってある生放送番組に出演した時のことです。 出演者全員がステージの上に登場するオープニングで、私たちはほぼ真ん中に並んで…
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結婚は「温かい家庭を持ちたい」と語った百さんらしい決断
「スター誕生!」からは私の約半年後に桜田淳子さん、約1年後に山口百恵さんがデビューし、3人の学年が同じということもあって「花の中3トリオ」と呼ばれるようになりました。「淳ぺい」と「百さん」とは、高校卒…
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ひばりさんの悲報が届いて着の身着のまま家を飛び出した
ひばりさんが亡くなられてから、28年が過ぎました。あのときの悲しみは今も言葉では言い表せません。私は当時、引退して家庭に入っていました。ひばりさんがご病気だったことはもちろん知っていましたし、毎日回…
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<第6回>自宅で焼きそばを…“お姉ちゃま”美空ひばりとの時間
美空ひばりさんには本当にかわいがっていただきました。ひばりさんは私を「マチャコ」と呼び、私はひばりさんを「お姉ちゃま」と呼ばせていただきました。番組でご一緒させていただいた以外にも思い出は多く、ご自…
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<第5回>阿久先生の“作戦”に芸能界を辞めたいくらい驚いた
私のデビュー曲を書いてくださった阿久悠先生は、まさに「森昌子」の生みの親でした。「スター誕生」では審査員もされていましたが、先生は最初のオーディションで私を見た瞬間に「この子を番組からのデビュー第1…
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“バビ語”を解読して女子トークに入ってきた萩本欽一さん
私のデビューのきっかけは「スター誕生」です。予選会の会場で生まれて初めて芸能人を見ました。そう、萩本欽一さんです。萩本さんは最初からおちゃめで、ちょっとシャイな“欽ちゃん”でした。実はその頃の私は天…
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<第3回>「学園3部作」を歌うときは今もセーラー服着用
自分で言うのも何ですけれど、今やってるコンサートは毎回とても盛り上がります。理由は、着物を着て、皆さんにジックリと聴いていただく歌ももちろんあるのですが、デビュー曲の「せんせい」から「同級生」「中学…
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<第2回>毎年お正月に楽しみにしているのは箱根駅伝
今、デビューした頃に近いくらい仕事が忙しいのですが、当時とは仕事に対する思いが全然違いますからね。あの頃は大人が敷いてくれたレールの上を、ただがむしゃらに走っていただけでした。高校卒業までは忙しすぎ…
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<第1回>3人の子供が自立してくれて肩の荷が下りた
昨年、デビュー45周年の節目を迎えましたが、今は人生をとても楽しく味わえています。たくさんの方が私の歌を待っていてくださり、話も聞いてくれる。こんな幸せなことはありません。途中で20年近く休ませてい…