保阪正康 日本史縦横無尽
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蒋介石が拠点とした重慶に日本軍は無差別爆撃を加えた
日中戦争での日本軍の侵攻は、確かに勢いがあり、中国軍は自分たちの国の弱体ぶりを痛いほど知らされた。昭和13(1938)年5月に徐州を制圧し、6月には安慶が、そして10月には広東が制圧された。そのあと…
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侵略者は敵を破るほど不安になり、崖から落ちる
侵略した軍隊が崖から落ちるとはどういうことであろうか。蒋緯国の説明を紹介すると、しょせん軍事といえども人間の心理を抜きに語ることはできないということになる。 「古来、侵略する軍隊は、ひとたび侵…
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蒋緯国の説明「侵略する軍隊は最後に崖から落ちる」に納得
「土地があって人は住んでいない、そこには主権が存在しない、そういう空間にいずれかの権力が拡張していくことは許されるでしょう。しかし人類史はある段階からそういう空間にも法的な支配が確立することになり、主…
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蒋介石の次男は「戦争は歴史観や哲学を基にした戦い」と
私はこれまで、太平洋戦争で日本軍と戦ったアメリカ軍の将校、ソ連軍の兵士、さらにはオランダの将校など何人かに話を聞いたことがある。戦後の、すでに30年、40年後だけに証言はある意味で事実よりも感情が先…
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日本軍は徐州、武漢、広東に侵攻し「傀儡政権」を樹立した
トラウトマン工作は、結局は失敗という形になった。トラウトマンはドイツの外交官として、中国事情に最も通じた一人だった。駐華大使になる前は、ドイツ外務省でアジア部門の責任者であった。トラウトマンが、リッ…
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近衛文麿は「相手とせず」を“人生最大の失敗”と言い残した
南京陥落後に示した日本側の条件は、中国に我々の傀儡国家になれというに等しい内容であった。しかも昭和13(1938)年1月15日までに回答をよこせというのだから、中国側指導者は当然、怒りの感情を持つ。…
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陳立夫の案はリッベントロップに拒絶され工作は失敗した
私は、ドイツ駐在の経験を持つジャーナリストに話を聞き、どういう手づるでそうした資料が見られるのかを調べてみた。ドイツにいる日本人でジャーナリストの体験を持つ人に渡りをつけて、とにかくそういう資料が公…
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陳立夫が長く中国語で説明したソ連と英国を倒す戦略とは
トラウトマンは、具体的にどういう案なのかと陳立夫に確かめた。私も「陳先生はどのように説明したのでしょうか」と英語で尋ねた。「英語で説明するか」と彼は言った。しかし私は中国語なまりの英語はわからない。…
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「白色と赤色の帝国主義と戦う」陳の言葉にトラウトマンは
12月26日、駐華大使のトラウトマンは、国民政府の外交部長である王龗惠と組織部長でこの和平工作の担当である陳立夫に日本側の案を渡した。トラウトマンは、こんな案を中国がのむわけはないと知っていた。さら…
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日本軍は暗号を解読。中国に賠償金を要求する声もあがった
日本軍の中支那派遣軍の参謀は、なぜ日中の和平工作が陸軍全体に漏れていったかについて、詳しく説明してくれた。平成に入って間もない頃で、「もう明らかにしてもいいだろうから」と言っていた。平成2(1990…
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石原莞爾ら不拡大派は参謀長の東條英機らに封じ込まれた
日本の軍人の戦略の曖昧さは盧溝橋事件が日中戦争へと拡大していくに従って、より明確になった。たしかに日本は軍事的に有利であった。8月13日には上海で日本軍と中国軍が新たに衝突することになった。日本軍は…
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中国との戦争に反対した「石原莞爾と戦争拡大派」のその後
日中戦争の不拡大を唱えたのは、参謀本部作戦部長の石原莞爾が中心だったのだが、彼の反対論は確かに一理あった。蒋介石政府はその中心に有能な官僚や実務家を集めて、政治的方向性を明確にしていた。経済的基盤が…
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スターリンの戦略は日本を戦わせ泥沼に引き込むことだった
中国国民党の戦略は、ソ連の戦略を逆手に取っている。盧溝橋事件をきっかけに一気に中国への侵略行為を進めていく日本軍は、スターリンの歓迎するところであった。この日本軍と蒋介石を指導者にして戦わせる。中国…
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陳立夫の証言と見解 スターリンはなぜ蒋介石を救ったのか
陳立夫の言う「共産党員」は、言うまでもなく党籍を持つ党員という意味ではなかった。ソ連のスターリンが描いている戦略に無意識に同調している軍人を指している。いやもっと具体的にいうのならば、当時の国際情勢…
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歴史観を持たない日本の軍人が愚かな侵略を行った
中国国民党には、孫文亡きあと、3つの有力なグループがあった。これは孫文の秘書でもあった山田純三郎の書き残した原稿からの引用になるのだが、山田流の言い方によると「西山会議派」「改革派」「独裁派」である…
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西洋を追いかける日本は西洋に倒されると陳立夫は分析していた
中国の文化と自国の文化を融合させた日本の文化、伝統は相応に意味のある、人類史の上では貴重な意味を持っていたはずである。陳立夫は、そういう文化を日本人の特徴と見ているかのようであった。ところが、と言う…
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「日本人はアジアの他国を侮った」と陳立夫は言った
私が陳立夫を取材したのは1990(平成2)年の春である。それから約2年の間に5回ほど面談して話を聞いた。国民党の組織部長として党を動かしていた彼は、蒋介石の右腕でもあった。兄の陳果夫とともに、日本軍…
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日本軍は「手向かう蒋介石を懲らしめる」と言い出した
蒋介石の関頭声明は、中国人の心を揺さぶった。日本軍が我が領土で勝手に軍を動かし、我々の祖先の残した歴史的責任を侮辱するがごときは許されない、とも述べていた。その声明の中で「いま中国は弱い国である。し…
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日本軍は停戦交渉を持ちかけつつ中国軍に一撃を加えた
日中戦争はこの盧溝橋事件が発端になり、やがて全面戦争に発展していった。たしかに7月7日の夜に発砲事件があり、小競り合いの様相は呈したが、それから明け方までは特に軍事衝突の兆候はなかった。ところが明け…
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1937年7月、盧溝橋での一発の銃声によって日中戦争が勃発
前回に続いてもう少し、孫治平の証言に耳を傾ける。彼はカリフォルニアの大学に留学してから、南京から届く情報や新聞によって次第に、日本軍が中国への侵略を強めていることを知った。そういう話をする時には、冷…