保阪正康 日本史縦横無尽
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自分の意見と対立する者に悪口雑言を投げつけた石原莞爾
ここで日中戦争時の史実から離れて、昭和10年代の日中戦争、太平洋戦争の折の昭和陸軍内部における、ある対立の構図を示しておきたい。東條英機と石原莞爾の対立、あるいは衝突がこの時代の陸軍の基本的な矛盾を…
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石原莞爾いわく「東條英機と梅津美治郎こそ日本の敵だ」
不拡大派の中心にいた石原莞爾について触れておこう。盧溝橋事件から2カ月半ほど後に石原は関東軍参謀副長に異動となった。拡大派の陸軍指導部の杉山元らが、同じく拡大派で何事も強硬策しか取らない東條英機(参…
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軍が演出した南京陥落の歓迎デモを秩父宮殿下はどう見たか
日中戦争が長期持久戦になっていく事態に、日本国内は一気に戦時体制にと変わっていった。国民は耐乏生活を余儀なくされ、次第に軍事が中心の国家へと変貌していった。「欲しがりません、勝つまでは」といった類い…
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大川周明は精神錯乱状態に「恨み」で東條英機の頭を叩いた
これは田中隆吉の書(「敗因を衝く」)からの引用になるのだが、大川周明は和平工作の障害は、軍内の強硬派のゴリ押しにあると考えていたようであった。次のようなエピソードを紹介している。汪兆銘政府ができた後…
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指相撲、腕相撲を経て日中戦争はまさに「大相撲」の様相に
この頃、近衛首相が陸軍の中堅将校に執拗に脅かされていたとの証言もあった。近衛が和平の動きを進めるとの情報が入ると、「(陸軍内部の結社である)皇戦会を握る青年将校は、サーベルをもって近衛首相を恫喝した…
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「英霊に申し訳ないではないか」という声であふれた
汪兆銘を引き出す折に、影佐禎昭や今井武夫は、平和回復後の2年以内に「日本軍は支那から撤兵」との約束を伝えていた。このほかにも満州国の承認などといった条件があったにせよ、この撤兵というのは汪兆銘側にと…
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謀略型軍人の態度を変えさせた石原莞爾の日中戦争不拡大論
汪兆銘担ぎ出し工作の日本側の裏面史を語っておくことにしたい。この中心になったのは、上海で影佐機関を動かしたこともある影佐禎昭であった。担ぎ出し工作の始まりのときは、参謀本部の第8課の課長であった。第…
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「この国を守る役割を果たした」汪兆銘の妻は獄死を選んだ
桐工作は謀略の一種であったと言われるのだが、最終的に蒋介石の国民政府がどの程度関与していたのかはわからない。この工作に一時は日本側が期待したのは間違いないが、しかし結局は諦めた。その分だけ、汪兆銘を…
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日本陸軍が和平工作を行った宋子良は中国の謀略による偽物
なぜ桐工作というのかは不明であったが、日本の特務機関は猫、牛といった1文字を謀略作戦に名付けている。大方この作戦も「桐」という1文字で表すことにしたのであろう。日本軍の情報将校である今井武夫や影佐機…
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汪兆銘の新政府成立の裏にあった日中の謀略会議
汪兆銘の背信は中国国民党の指導者たちを激怒させたが、その裏切りは予想されていた節もあった。というのは汪兆銘は、徐州作戦、武漢三鎮作戦などで中国軍が敗退した頃から、日本との和平を公然と口にするようにな…
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蒋介石は汪兆銘を「恥知らずの徒」と罵った 侮蔑の表情も
汪兆銘の担ぎ出し工作は、実は昭和13年の早い時期から準備されていた。蒋介石政府の軸である国民党の副総裁、汪兆銘に照準を絞って親日政権をつくらせようとの思惑が、日本の参謀本部の情報、謀略担当の将校の間…
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共産党の紅軍は40万人超え日本人捕虜への思想教育を行った
アメリカ世論が日本に強硬になっていった理由は、日中戦争での日本の軍事行動が露骨に戦争の残虐性を示したからだった。重慶爆撃によって街の中心部が崩壊し、中国の市民が多数死んでいるニュース写真はその裏付け…
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兵士の訓練が十分でないことを中国側は見抜いていた
日中戦争に投入された日本兵は、どの程度の数になるのか、むろんそれは極秘事項であった。日中戦争の始まる頃、つまり一撃の下に蒋介石を黙らせるという作戦を始めた頃は、平時の17個師団を33個師団に増やすと…
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奇妙な対立軸 将校への批判を聞き中国軍に投降する日本兵
日中戦争の戦場で中国軍の捕虜になって思想教育に触れ、日本は誤った戦争をしているとの考えに至った兵士は、積極的に戦場での宣撫工作を進めている。そういう捕虜の実態は、今に至るも全容が明らかになっていると…
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中国軍は日本人捕虜に白米を食べさせて思想教育を行った
中国軍、特に八路軍の捕虜になった日本兵の実態について、さらに論を進めていきたい。この面の史実については、これまであまり語られてこなかったし、あえて触れまいとするのが戦後社会の了解事項のようでもあった…
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捕虜を殺さず侵略戦争の愚を教え、中国軍の宣伝に使う戦略
軍事で多くの戦果を上げた日本は、しかし政治、外交では多くの失敗を犯した。さらに軍事でも戦闘には勝ったといえども、戦争という大状況では必ずしもすべての手段が円滑にいったわけではなかった。それはこれまで…
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駐米大使・胡適の任務は米国と日本を融和させないことだった
日中戦争は昭和13(1938)年の終わりから、少しずつ国際的な枠組みの中に組み込まれていった。この年の7月から始まった武漢攻略作戦では、11月にともかく日本軍が武漢を制圧した。このころから翌年7月ご…
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日本軍の漢口、重慶への攻撃が世界に報道され世論は硬化した
毛沢東の戦略による遊撃戦、持久戦は、日本の弱点を克明に精査してあみ出されたのだが、基本的には正規戦が無理な状態だから、徹底したゲリラ戦で日本軍を疲弊させるという点にあった。蒋介石の戦略は各戦区の精鋭…
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毛沢東は「日本の国力は今が限界」と分析していた
武漢三鎮の制圧、そして広東作戦の成功によって、日本の制圧空間は約151万5696平方キロに及んだ。「図説 日中戦争」(太平洋戦争研究会編、森山康平著)から数字を引くことにするが、日本の制圧空間は、全…
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防共協定以降もドイツは定期的に中国に武器を援助し続けた
武漢三鎮とは、揚子江を挟んで西側に漢口と漢陽があり、東の岸に武昌がある。この3つの市を合わせると人口が150万人を超える都市であった。漢陽は製鉄工場があり、中国の要衝でもあった。武昌は隋の時代から湖…