保阪正康 日本史縦横無尽
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政友会総裁の原敬は対中国外交を強く批判した
21カ条要求を突きつけた日本政府について、国内ではどのような反応があったのだろうか。さらに中国国内の孫文を中心とする反袁世凱の勢力は、この要求にどのような反応を示したのか。そのことについて触れておく…
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米国は中国への圧力を強める日本に批判的になっていった
ヨーロッパで先進帝国主義国家と、少々遅れ気味のドイツなどの後進の帝国主義国家が争っている時に、アジアでは日本がその地位を着々と固めていたのであった。日本にとって、この欧州戦争はまさに暁光でもあったの…
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極めて独善的 21カ条要求の狙いは中国の植民地化だった
第1次世界大戦時の日本の軍事行動は、世界の目がヨーロッパ戦線に向いている時に、極めて巧妙に中国への内政に干渉した。 中国との協定でドイツが持つ青島の権益には一定の了解が出来上がったのだが、し…
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日本の権益確保への野心をはらんだ「対華21カ条要求」
日本と第1次世界大戦の関わりを説明しておこう。第1次世界大戦にさまざまな要因が重なり合っていることはすでに論じてきた。しかし日本はそういう関わりを持たずに参戦した唯一の国でもあった。そのことを整理し…
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英国が日本に第1次世界大戦への参戦を求めた理由
この戦争が特異な形で広がったという理由は、各国が相次いで自国エゴをもとに参戦を決定したその思惑にあった。あえてその理由を考えていくと、イギリス、フランスなどの先進帝国主義がすでに持っている権益を、ド…
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第1次大戦の原因はドイツの肥大化だった 時系列に整理する
第1次世界大戦が瞬く間にヨーロッパ全域に広がっていったのは、20世紀の国際社会が変革を迫られていたからといってもいいであろう。干し草の山が発火直前にあるとするなら、マッチ一本で焼き尽くすことができる…
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第1次世界大戦を招いたヨーロッパの列強体制
1914(大正3)年6月28日、ボスニアを訪問中のオーストリア帝国の皇太子夫妻が、セルビアの民族主義団体に所属する青年に暗殺された。この暗殺事件が発端となって4年余にわたり、欧州全土を巻き込む戦争に…
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20世紀前半の「戦争」の時代をどう受け止めればいいのか
山県有朋の議会は明治23(1890)年11月25日に召集されたのだが、その時の歳出予算は8300万を超えている。その内訳は徹底した軍備費で占めていた。施政方針演説でも、国家独立自衛の源は主権線として…
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山県有朋による主権線と利益線から生じた「生存圏の拡大」
ヒトラーの野望はむろん、第1次世界大戦で失った領土、権威、秩序を回復し、さらには8000万のドイツ国民の生存のための空間を拡大することにあった。そういう生存圏の拡大のために人種問題が意図的に用いられ…
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民主主義、独裁体制、社会主義…各国の代表者は何を求めたのか
第1次世界大戦と第2次世界大戦は連結している。つまり20世紀前半の人類史は、この大きな戦争を体験することで、その歩みを根本から変えてしまったということができるように思う。 日本は1914年か…
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ポーランドを分割したヒトラーとスターリンの「陰謀」
日中戦争は結果的に近代日本の終焉を迎える引き金になった。この戦争の処理をめぐって、太平洋戦争が引き起こされ、日本は米国、英国などの連合国軍との戦争に入り、結果として崩壊の事態に至るのであった。昭和1…
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東條英機内閣での反政府活動はまさに命がけの抵抗だった
斎藤は、除名に反対した代議士の名を日記に書き残している。岡崎久次郎(民政党を離党)、牧野良三(政友会)、芦田均(政友会)、名川侃市(政友会)、宮脇長吉(政友会)、丸山弁三郎(政友会)、北浦圭太郎(第…
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昭和15年3月7日、賛成296票で斎藤隆夫の除名が決まった
衆議院が「斎藤隆夫除名」を行うプロセスを見ていくと、すぐに2つのことに気がつく。ひとつは親軍派の代議士のあまりにも弱い姿勢である。彼らは軍の意向、思惑、恫喝を恐れて、とにかく議会から斎藤を追い払って…
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軍人、政党を敵に回した「反軍演説」斎藤隆夫は除名処分に
斎藤隆夫の演説の中には、次のような一節もあった。 「我々が支那事変の処理を考うるにあたりましては、寸時も忘れてならぬものがあります。(略)この間におきまして我が国民が払いたるところの犠牲、即ち…
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立法府の土性骨を示した斎藤隆夫の「反軍演説」
これまで日中戦争のさまざまな局面を描いてきたのだが、軍事が先行している構図は国の方針がひたすら直線的に進むことを意味していた。軍事で制圧すれば、自在に中国を支配できるとの考えは、歴史に対する無知を証…
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三笠宮殿下は東條英機暗殺未遂事件への曲解について語った
三笠宮殿下は、東條暗殺未遂事件がご自身のルートから漏れたと言われている史実に、それは違うとのお考えを持たれていた。お約束の日に、私はその事典を刊行した出版社の役員らと宮家を訪ねた。殿下はいくつかの資…
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議会帰りの東條首相・陸相をクルマごと吹き飛ばす暗殺計画
大本営参謀のTは、昭和19年7月に支那派遣軍から大本営に赴任した。改めて戦況の詳細を綴っている文書を読んで、もう戦争を続ける状態にないことを知った。東條首相・陸相はそういう事実を隠蔽して、講和の模索…
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太平洋戦争下 具体的に進んでいた東條英機暗殺計画の内容
太平洋戦争下において、政治、軍事の大権を付与された形になり、東條英機はまさに独裁的な権力体制を敷いた。自分に反対するのは昭和天皇に弓を引くことだと公言し、戦争政策に反対、あるいは講和を主張する者を徹…
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政治や軍事の中枢からも東條英機“暗殺計画”が持ち上がった
石原莞爾の東條批判はつまるところ、指導者の条件を満たしているわけではないという点に尽きた。石原は現役の軍人でありながら、東亜連盟という組織をつくり、日本と中国が中心になってのアジア建設をうたっていた…
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「戦陣訓」をめぐる東條英樹、石原莞爾の対立
石原莞爾と東條英樹の対立について、もう少し詳しくふれておきたい。この対立が昭和陸軍の帰趨を決めた側面もあるからだ。 石原は参謀本部の作戦部長という要職を占めたにもかかわらず関東軍参謀副長に、…