保阪正康 日本史縦横無尽
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アメリカとイギリスは首脳会談を行い日本の一撃を待った
実は天皇は近衛からルーズベルトとの首脳会談について報告を受けた時に、賛意を示している。南部仏印進駐とそれに対する報復に天皇は困惑していた。石油が入ってこないという状況によって、海軍をして対米戦に傾く…
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元高級課員・石井秋穂に聞いた東条英機の本音と近衛観
近衛が提案した日米の首脳会談について、近衛自身は海相の及川古志郎と陸相の東條に一応は相談している。及川は全面的に賛成と答えたが、東條は「即答できない。陸軍省に持ち帰って検討してみたい」と答えた。近衛…
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軍人たちは原因と結果を考えずヒステリックに叫んでいた
奇妙な言い方だが、軍人たちは原因と結果について重大な考え違いをしていた。この頃の軍人の発想はまるで児戯にも似た面があった。 わかりやすい言い方をすれば、子供(A)が子供(B)を殴ったと仮定し…
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近衛は米国の怒りを鎮めようとしたが、東條は返事を濁した
なぜ軍事指導者は状況を見誤ったのか。自分たちが戦争覚悟で南部仏印に出て行っても、アメリカは戦争までは決意しないだろうと一方的に決めつけていたからである。ところが現実に南部仏印への進駐を始めると、ホワ…
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石油の全面禁輸はない…日本の軍事指導者は甘く考えていた
日本はドイツがソ連に侵攻してほぼ1カ月後に南部仏印に進駐した。ドイツの力を借りて東南アジアでのフランスの政治権力を出し抜き、南方への資源確保を目指す動きなのは明らかであった。もっとも、日本側はナチス…
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ハル国務長官と野村大使による外交交渉で行き違いが明確に
太平洋戦争の原因として最も短期的な見方をした場合、昭和16年6月22日のドイツによるソ連領への侵攻と考えることができる。ドイツがヨーロッパを席巻し、あまつさえソ連にまで勢力圏を拡大しようとするのを見…
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陸軍参謀本部は「北進論」陸軍省と海軍は「南進論」を主張
この頃の国策は軍事が中心になっていた。昭和12(1937)年7月からの日中戦争が一向に解決せず、「聖戦」の名の下で国民に負担を強いているがゆえであった。政治は軍事に振り回されてほとんど力を失っていた…
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昭和16年6月22日、ドイツのソ連侵攻は衝撃的だった
昭和16(1941)年12月8日は日本海軍が真珠湾攻撃に踏み切った日である。この日はさまざまな表現で語られる。日本の存亡の始まりの日とも言えるし、危機突破を試みた初めての挑戦の日という言い方もできる…
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吉田も岸も…安保条約と日満議定書の皮肉な共通点
あの60年安保闘争とは一体何だったのだろうか。今なお見落とされている視点を私なりに整理しておきたい。 吉田茂首相はなぜ昭和26年9月7日の夕方にサンフランシスコの第8軍司令部で日米安保条約に…
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集会のさなかに河上社会党前委員長が右翼青年に刺された
「昭和35年6月19日午前零時」は60年安保の抗議デモが敗北という形で決着がついた日であった。国会を数百万の人々が取り囲もうが、全国いたるところで抗議デモが起ころうが、それは新安保条約の自然承認の前の…
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狂暴化した警官隊は暴力団と共謀して女子学生を撲殺した
6月16日から17日にかけて、日本社会には声明が氾濫した。政府、各政党、財界、労働組合、文化団体、大学、そして新聞社までもが声明を出した。樺美智子さんの死はそれほど大きな衝撃を与えたのである。 …
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東大女子学生の樺美智子の死に学生たちは涙の黙祷を捧げた
1回目の衝突で学生たちは国会の外に押し出され、負傷した学生は病院に運ばれた。だが国会の構外にはまだ学生たちが待機していた。彼らから女子学生の死を知らされた全学連の宣伝カーが国会構内に入り、東大女子学…
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「女子学生が死んだ」という噂がデモ隊の中に広まった
今年は昭和35(1960)年6月15日から60年にあたる。あの時代を肌で知る者は、今も6月15日のことを鮮明に記憶しているだろう。思い出としてはそれほど強烈である。 この日、京都の円山公園で…
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ハガチー秘書への暴挙が抗議デモを萎縮させたという皮肉
ハガチー秘書の自動車を包囲しての暴挙は、国の内外に反響を呼んだ。「暴挙は国際的な常識に欠ける」というのは否めない事実であった。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストは、日本の民主主義がまだまだ未…
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ハガチーはデモ隊に取り囲まれキャデラックの屋根が歪んだ
6月4日以後もデモは続き、6月8日に大きなデモが予想された。というのは岸がアメリカのアイゼンハワー大統領を日本に招いて調印式を行おうとしていたからだ。その日は6月19日と想定されていた。大統領秘書の…
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「俺たちは賃金をかけてやってるんだ」と袋叩きにあった
安保改定阻止国民会議は昭和34(1959)年3月28日に結成された。総評などの呼びかけで社会党、共産党などを含め134団体を代表する800人ほどによって動きが始まった。1年後の昭和35年3月には16…
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デモのエネルギーで経済大国になれると読んだ首相秘書
新安保反対というより、反岸首相といった流れのデモ隊が国会を幾重にも囲む状況を、いわゆる体制派の人たちはどう見ていただろうか。自民党の有力者で、岸首相の辞任後に首相の座に就いた池田勇人の秘書だった伊藤…
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日本が戦争の時代と決別するための実験だった安保反対デモ
新安保条約への抗議デモの本質は岸首相の体質への不満といってよかった。彼の言動は大衆の怒りの火に油を注いだ。デモの人たちの「声ある声」は少数で、多数の国民は政府に賛成している、私はそういう声を信頼する…
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中高生や商店街など社会全体に怒りのエネルギーが広がった
この日(昭和35年5月19日)の夜から20日の朝にかけては雨が降っていた。その中を労働組合員や全学連の学生たちが国会の周辺でデモを続けていた。その数は3000人ほどだったという。雨の中を国会に突入し…
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新安保の強行採決 国会では議員紹介の暴力団が野党を威嚇
自民党の暴力的な強行採決は、新安保条約の改定をめぐる対立を一気に「議会政治を守るのか否か」に変えていった。ありていに言えば新安保条約は確かに日本が属国状態から一歩抜け出す面をもっていた。駐留アメリカ…