保阪正康 日本史縦横無尽
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ある参謀の日記には「これで開戦、めでたし、めでたし」
ハルは国務長官室から陸海軍の指導者に電話をかけて、「さあ、これからは君らの出番になるよ」と伝えている。その後、ハルとルーズベルトの机にはマジックで解読された電文が届いた。野村と来栖は東京の本省(外務…
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米国のアリバイづくりの文書に野村と来栖は体を震わせた
アメリカ側が日本に示す「暫定協定案」(これが後のハルノートと言われるのだが)を事前に受け取った国の中で、チャーチルと蒋介石はすぐに反応を示した。この案には暫定的であれ日米が戦争を回避する方向も盛られ…
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交渉の最終段階 ルーズベルトは日本側をあやす作戦に出た
甲案について、国務長官のハルは日本は三国同盟を死文化したらどうかと要求した。野村はそれをやんわりと拒否する。結局、日本は乙案をアメリカ側に提示した。11月20日のことである。少しは日本側が譲歩を示し…
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「願望」だけの終戦の腹案をそのまま決定するお粗末
11月15日に決まった終戦に至る腹案は、いうまでもなくドイツ頼みであった。わかりやすくいうならばヒトラーの戦略に乗っかろうとする甘さがあった。この時(1941年11月)、ソ連に侵出していたドイツ軍は…
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ヨーロッパ戦線でのヒトラー戦略に便乗した戦争終結案
御前会議の後の対米交渉は、結果的に日本が焦慮している状態で、アメリカは逆に政略的にじらすという対応となった。国務長官のハルと駐米大使の野村吉三郎との交渉は互いに化かし合いとなった。 東郷外相…
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米批判報道が優先 政治家も檄を飛ばして戦争を後押しした
大本営政府連絡会議や御前会議の内容を国民は全く知らされなかった。当時のメディアは内務省や軍部の検閲を受けていたから、アメリカに対する憎しみをかきたてる報道が優先されていた。なぜ日本の「暴支膺懲」がう…
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軍令部は連合艦隊の機動部隊を単冠湾に集結させた
大本営政府連絡会議の決定を追認する御前会議は、11月5日の午前10時半から午後3時15分まで開かれた。途中1時間の休憩を挟んでの会議であった。むろん天皇は慣例により一言も発しない。天皇の意思は枢密院…
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東条英機は天皇の前で泣き出した
この会議で演じられているのは、軍事指導者は政治の解決をすぐに戦争で決着をつけようとすることであった。 東條は休憩を宣言し、興奮したやりとりを鎮めようと図った。そのうえで別室に杉山と塚田を呼び…
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東郷の「乙案」に杉山と塚田の2人が激しい口調で反対した
外相の東郷も外交交渉の期日を、11月30日夜の12時までに決着が付かなければすぐに戦争に入るという方針を渋々受け入れた。考えてみればむちゃな話である。相手があっての交渉なのに1カ月以内に日本の言い分…
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重要な意味を持つ「空白の一日」彼らは何をしたのか?
大本営政府連絡会議は1日置いて11月1日に最終的な会議を開き、結論を出すことになった。蔵相の賀屋興宣や外相の東郷茂徳が一日の考える時間が欲しいと言ったので、10月31日は各人が考える日となった。太平…
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東郷以外は米国の提案を容認すれば「三等国」になると判断
外交か、それとも戦争かを決定する大本営政府連絡会議は項目をあげて再検討の議論を始めた。しかしこの会議が真に天皇の意思を尊重しての検討であったかは疑わしい。要になる項目ではなく、戦争を第一義に考えてい…
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最初から天皇を無視した戦争ありきの大本営政府連絡会議
東條内閣はまず国策の再検討会議に入った。そのためにいま対米交渉で懸案になっている課題を11項目に整理して、それを大本営政府連絡会議で論じることにした。その項目の下案をまとめたのが陸軍省軍務課高級課員…
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東條内閣の誕生により新聞はアメリカに嫌悪感を表し始めた
ともかくも10月17日に東條内閣は誕生し、およそ50日後に太平洋戦争が始まったことになる。そのことは首相に推されるにあたって求められた天皇からの3条件を東條が果たせなかったことを意味する。 …
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東條は天皇の組閣命令を聞いて興奮のあまり足を震わせた
木戸の言はすぐさま反発を呼んだ。東條の二枚舌を知らず、強硬派の軍事指導者に政権を委ねるというのでは、日本は戦争の道を歩む方針を内外に公然と明らかにしたことになる。実際、海外に戦争のシグナルを送ったこ…
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天皇と近衛首相に逆の意思伝える 二枚舌を使った東條陸相
ここで改めて、なぜ強硬派の東條が首相になったのか、そのことを確認しておく必要がある。歴史が教訓の宝庫という意味は、この不思議な人事が結局、この国のもっとも大きな反省材料になっていることだ。そこを理解…
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「清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要」と東條は言った
東條陸相と近衛首相の対立は、単に外交か軍事かという衝突ではなかった。10月10日の近衛の私邸での四者会談以後、2人は極めて感情的に意見をぶつけ合った。14日の閣議では、近衛は「支那撤兵」を懇願の形で…
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東條陸相の「矛盾した論法」に近衛首相は反論できなかった
東條陸相は、近衛首相と豊田外相、それに及川海相の説得に反論している。その論法は次のようなものだった。 「外交交渉をまとめる確信があるなら、戦争準備はやめる。しかし確信がなければ、やめるわけには…
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昭和天皇は東條英機を使って戦争を回避しようとした
対米英蘭戦争は実際にはこの9人で決まったという事実を私たちは忘れてはいけない。本来なら首相と陸相の2役をかけるほどのんびりした時代ではない。東條が陸相を他の誰かに譲るのが筋だと思うが、この軍人が主要…
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太平洋戦争のプロセス 軍人による軍人のための戦争だった
あえて触れておかなければならないのが前述の2点を挙げた項目の2点目である。戦争政策は誰が決めたのかという一点である。 天皇が臨席しての御前会議というのが建前になっている。しかし果たしてそう断…
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御前会議 軍事指導者たちは昭和天皇に二枚舌を使った
昭和天皇は9月6日の御前会議で戦争を前面に出す政策に公然と反対した。この時に明治天皇の日露戦争時の御製を2度も口にしたのは異様なことだった。普通、天皇はこの会議で口を開くことはまったくなかったからだ…