保阪正康 日本史縦横無尽
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吉田茂は「日本の指導者は武力制圧を考えて行動」と謝罪
講和会議は、アメリカのトルーマン大統領の挨拶から始まった。「今こそ憎しみは捨てよう。これからは勝者も敗者もない。平和への協力者があるのみ」という内容であった。講和条約の提案国としてアメリカ、イギリス…
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サンフランシスコ講和条約は日本の「第2の開国」だった
明治初期の日本が選択すべき道はいくつかあったが、結局、日本は帝国主義的方向を選んだ。その経緯について前回まで指導者のエピソードなどを交えて語ってきた。本日から10回ほどは時代が大きく飛んで、日本が講…
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伊藤博文は板垣退助らの自由民権運動を容赦なく弾圧した
明治10年代、自由民権運動と伊藤博文を中心とする政府は本格的に対立していった。政府は政治的、法的に抑え込む方針を譲らず、その弾圧ぶりは、その後の日本政府の思想弾圧の原型ともなった。 明治15…
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西園寺公望は「天皇はもっとリベラルであるべき」と考えた
自由民権運動を語るときに忘れてならない人物がいる。西園寺公望だ。昭和の時代には元老として天皇に次期首相を推挙したり、天皇の側近として立憲政体を守り抜く役を務めた。軍部にとって最も目障りな人物であった…
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弾圧された民権運動は政治小説となって国民に訴えかけた
民権運動は国民の中にも少しずつ広がりを見せた。歌謡、文学、さらには講談にまで民権をテーマにした出し物が増え、巷では民権数え歌までもが愛誦された。文芸評論家の小田切秀雄はその著書「二葉亭四迷」で次のよ…
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中江兆民、大隈重信らによって思想戦、言論戦に変化した
植木枝盛など高知の立志社の会員や、立志社に影響を受けた者の自由民権運動への挺身ぶりは並外れていた。立志社は「人民は国の本なり」と明言し、民会の成立で国家の基本をつくろうと、その覚悟を明確にしている。…
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在野の教育者は「国家を動かすのは人民である」と主張した
明治10年代の自由民権運動は極めてレベルが高かった。幕末、維新と変革が進む中で政府の方向がより国家主義的な内容に進むのに対して、民権思想の鼓吹者たちは人民の意識や知識を高め、これをもって政府の政策に…
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伊藤は相手を敵と判断するや徹底して追い詰める性格だった
伊藤博文は近代日本の創設者として名を残したが、その始まりは大久保利通亡きあとにその地位を引き継ぎ権力の中枢に座ったことにあった。自由民権運動が燎原の火のごとく燃え広がった時代である。しかし伊藤はこう…
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伊藤博文は英国公使館襲撃から開国派に変貌を遂げていく
伊藤博文はもともとは長州の農民の子供であったが、軽卒の伊藤武兵衛の家に養子に入り、それが縁で松下村塾に入ることができた。 幼少時から利発なタイプで、ペリーが日本を訪れた時に警備役の一員に加わ…
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体制の根幹に迫る思想戦に変質していった大久保利通の暗殺
天皇親政は制度上も保証されることになった。明治10年9月、「内閣参朝公文奏上程式」が定められ、天皇は内閣に臨御することになった。国策の重要な政策に天皇が関わることを意味し、参議らもほぼ定期的に上奏す…
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明治天皇は政務の報告を受けて意見を述べるようになった
西南戦争の期間、明治天皇はいわば表情のすぐれない日々を過ごした。その理由は、西南戦争への危惧と自らの役割がどこにあるかを十分に納得できなかったからだった。研究書の中には天皇がうつ状態であったとみる書…
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9月24日、西郷は門弟の別府に「もうよか」と介錯を促した
西郷隆盛の死についてはすでに多くの書物に書かれている。彼は鹿児島の城山に閉じこもった状態で、政府軍の最終的な攻撃を受けた。この時、西郷軍兵士はわずか数百人だったという。この西郷軍を1万人に近い政府軍…
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死を前にした西郷隆盛に届いた山県有朋からの情理の書簡
西郷は敗戦を覚悟して城山に立てこもった時に、どのような心境だったのか。無論それはわからないが、いくつかのことは想像できる。例えば、いつの日か新政府に抗して立ち上がらなければならない時があっただろう、…
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政府軍は「会津の仇」と叫びながら西郷軍を追い詰めた
西郷軍と政府軍の戦いは、熊本城をめぐる戦いから田原坂での戦いと、その範囲を広げていった。西郷軍にとって意外だったのは、徴兵制によって編成された政府軍が手ごわく、しかも勇敢であったことだった。 …
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門弟たちの火薬庫襲撃に西郷隆盛は「しまった」と叫んだ
西南戦争は起こるべくして起きた戦争であった。あえて2つの理由を挙げておこう。 ひとつは西郷隆盛の心中に新政府の人々の緩みや退廃への怒りがあり、維新の純化を求める気持ちがあったことだ。加えて不…
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大久保らは天皇の権威を自分たちの権威に組み込んでいった
大久保利通は自らの孤立を防ぐため、木戸孝允と板垣退助を再び参議に加えて、指導部を固めようと考えた。このような意図で行われたのが、明治8(1875)年2月の大阪会議である。といっても3人が話し合っただ…
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大久保利通は3年前の事件を蒸し返す自説で台湾に出兵した
大久保利通の取り組んだ2つの対応策について語っておきたい。ひとつは明治7(1874)年5月の台湾出兵である。この軍事行動は大久保の判断にもとづくといってもいい。その因は明治4年11月に琉球の漁民が漂…
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板垣と後藤は民撰議院設立の意見書提出 大久保利通に対抗
征韓論で下野した板垣退助と後藤象二郎は江藤新平を加え、そのほかの5人とともに明治7年1月、民選議院設立の意見書を発表している。その中で彼らは、天下の公議が大切であり、それには「民選議院ヲ立ツルニ在ル…
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江藤新平は明治7年「佐賀の乱」で処刑 さらし首にされた
征韓論に敗れて下野した西郷に、やはり下野した板垣退助が「いずれまたあなたと共に、この国をつくり上げる仕事に取り組みたい」と伝えた。西郷は首を縦に振らなかった。彼の本心は不明だが、実際に鹿児島に帰って…
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「征韓論」西郷隆盛は自分が朝鮮で殺されてみせると主張
留守政府と大久保利通、伊藤博文らの使節団の対立が、もっとも顕著に表れたのがいわゆる「征韓論」においてであった。征韓論には朝鮮に対して軍事的威圧を加えるという狙いがあった。当時の朝鮮は中国を宗主国とし…