保阪正康 日本史縦横無尽
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ハルは日本の外交文書の内容を知らないような演技をした
太平洋戦争を5段階に分けて考え、その最初の「勝利の時期」にどのような史実があったのかを語っているのだが、ここでワシントンの日本大使館の通告がなぜ遅れたのかを説明しておこう。松岡洋右が近衛内閣で外相に…
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7日午前7時、14回目の電報で日本大使館は混乱状態に陥った
山本五十六が隷下の機動部隊が真珠湾攻撃を始めた時にまず案じたのは、ワシントンの日本大使館が外交断絶の文書を事前にアメリカの国務省に手渡しているだろうかということだった。それを部下の政務担当参謀に執拗…
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山本五十六は真珠湾攻撃が「だまし討ち」になるのを恐れた
連合艦隊司令長官の山本五十六は、この日(12月8日)は旗艦・長門の長官室で参謀たちからの報告を聞く一方で、自らのこれからの処し方を考えていた。 真珠湾への先制攻撃自体は成功しているが、さらに…
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吉田茂は姑息な「ハル・ノート」のカラクリを見抜いていた
有田八郎や吉田茂ら外交畑の要人は、軍部に徹底した不信感を持っていた。従って開戦の契機になった「ハル・ノート」についても、軍事の側の訳文に不信感をあらわにしていた。開戦前、軍部はひたすら「アメリカ側か…
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米内光政のグループは「軍事的勝利ありえない」で一致した
太平洋戦争は外交が軍事に屈服した結果であった。外交の当事者たちは挫折感、敗北感に打ちひしがれていた。開戦に踏み切るまでにもっと有効な手立てはなかったのか、それが昭和10年代を担った外務省関係のスタッ…
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「これでルーズベルトは失脚だ」と東條首相は上機嫌だった
太平洋戦争の第1段階である「勝利の時期」に見られた現象や現実をいくつか選び、日本はこの戦争でどのような失敗、成功の素顔を見せているのかを検証していこう。そのために折々の近現代史との対比を試みつつ考え…
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3年8カ月の戦時期間 日本は真珠湾攻撃から5段階を経て敗北
太平洋戦争は昭和16(1941)年12月8日から20(1945)年8月15日まで続いた。もっとも、法的には9月2日に日本が降伏文書に調印してやっと終わったということができる。ともかく3年8カ月が戦時…
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明治天皇はなぜ戦争に対し消極的でなおかつ恐れたのか?
明治天皇はこの国を鎖国から解いて一等国にしたとの理由で「大帝」と呼ばれたりもする。剛直で揺るぎない信念の持ち主であるかのように語られてきた。実際にそのような性格を持ちあわせているのは間違いない。しか…
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日露戦争時 東條と青年将校“一体化”における天皇観の違い
日露戦争時の指導者たちと太平洋戦争時の指導者の比較を試みたとき、もっとも気になるのが天皇への態度である。天皇にどのように接したか。つまり、軍事の最高責任者である大元帥の天皇の名において戦略と戦術の一…
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「国民は灰色だ。白にでも黒にでもなる」と東條は言った
日露戦争と太平洋戦争の開戦前の動きについて、もう2点だけ説明しておこう。この2つの戦争を比べると、指導者の考え方の違い、天皇への向き合い方の姿勢に多くの開きがある。どちらがいいとか悪いというのではな…
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伊藤は講和も視野に入れたが考えもしなかった昭和の軍人ら
伊藤のこうした悲壮な決意は、天皇へのメッセージでもあった。この戦争は自分たちのつくった新政府、新国家が断固とした決意で始めることを教えたのだ。さらにこの御前会議(2月4日)の後で山県有朋は伊藤に対し…
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太平洋戦争と日露戦争 開戦時の様子にはいくつかの共通点
太平洋戦争が始まるまでの道筋について、これまで軍事指導者の動きを中心に見てきた。その道筋は37年前に始まった日露戦争に比べて欠落している要素が多い。戦争を国策として決定する会議のメンバーがあまりにも…
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開戦の詔勅 徳富蘇峰の推敲案に天皇は2カ所だけ手を入れた
東條は天皇を神格化して捉え、自分をその天皇に仕える忠臣の中の忠臣と位置づけていくことになる。もし彼が冷徹に現実に処していく政治家ならば、天皇の大権を付与されているにせよ、その戦争指導は客観的な分析、…
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「天子様の神格のご立派さには頭が下がる」と語る東條英機
御前会議で原嘉道が述べた所信は微妙な内容であった。そこには流れがあり、まず今回の開戦に至る経緯の中でアメリカは我が国の言い分を聞こうとしないと言い、これでは「明治天皇の御事績を全く失うことになる」と…
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天皇は高松宮の話に驚き「戦争が総意なのか」と問い詰めた
最終的に日本が戦争を国策とすることを決定したのは、12月1日の御前会議であった。とはいえそれは11月29日の決定を、天皇に追認させるとの意味を持っていた。実際に天皇が拒否すれば開戦が覆ることもありえ…
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ある参謀の日記には「これで開戦、めでたし、めでたし」
ハルは国務長官室から陸海軍の指導者に電話をかけて、「さあ、これからは君らの出番になるよ」と伝えている。その後、ハルとルーズベルトの机にはマジックで解読された電文が届いた。野村と来栖は東京の本省(外務…
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米国のアリバイづくりの文書に野村と来栖は体を震わせた
アメリカ側が日本に示す「暫定協定案」(これが後のハルノートと言われるのだが)を事前に受け取った国の中で、チャーチルと蒋介石はすぐに反応を示した。この案には暫定的であれ日米が戦争を回避する方向も盛られ…
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交渉の最終段階 ルーズベルトは日本側をあやす作戦に出た
甲案について、国務長官のハルは日本は三国同盟を死文化したらどうかと要求した。野村はそれをやんわりと拒否する。結局、日本は乙案をアメリカ側に提示した。11月20日のことである。少しは日本側が譲歩を示し…
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「願望」だけの終戦の腹案をそのまま決定するお粗末
11月15日に決まった終戦に至る腹案は、いうまでもなくドイツ頼みであった。わかりやすくいうならばヒトラーの戦略に乗っかろうとする甘さがあった。この時(1941年11月)、ソ連に侵出していたドイツ軍は…
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ヨーロッパ戦線でのヒトラー戦略に便乗した戦争終結案
御前会議の後の対米交渉は、結果的に日本が焦慮している状態で、アメリカは逆に政略的にじらすという対応となった。国務長官のハルと駐米大使の野村吉三郎との交渉は互いに化かし合いとなった。 東郷外相…