菅義偉 隠された経歴と裏の顔
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公明党相手に激烈な選挙戦だった 初出馬は4000票差の辛勝
「国交省の役人の多くは、年が明けると、横浜の関内にある藤木企業に新年の挨拶に行かなければなりません。正月はあまりに訪問客が多いのでアポイントなんかとれない。待合室には有象無象の役人と国会議員がたくさん…
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小選挙区制導入の96年 ラッキーが重なり国政に進出する
菅義偉が国会議員になれたのは、偶然の産物といえる。菅の政治の師である小此木彦三郎は90年代に入り、衆院の政治改革特別委員長を務め小選挙区制の導入を進めてきた。それが盟友の梶山静六に反対されて頓挫する…
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建設業や医師会…業界団体の陳情を次々に実現して得たもの
菅義偉が横浜市議として、港湾開発に取り組んだのはバブル最盛期の90年。市議1期目の残り1年を迎えた頃だ。 もとはといえば、革新市長の飛鳥田一雄の計画したみなとみらい21を高秀秀信市政で引き継…
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建設官僚OBを担いで「影の横浜市長」と呼ばれた市議時代
菅義偉は政治の師である小此木彦三郎と同じように、秘書から横浜市会議員になった。1987年から95年までの2期8年のあいだ横浜市政に携わり、バブル景気に沸いていた89年には市の経済港湾委員会で副委員長…
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“ハマの首領”藤木幸夫にバックアップされ横浜市議に初当選
菅義偉が初めて臨んだ1987年4月の横浜市議会議員選挙には、西区から自民党の長老市議、鈴木喜一が立候補する予定で、小此木彦三郎も応援していた。ところが、菅が同じ西区から出馬すると言い出し、小此木の怒…
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「政治の師」の反対押し切って横浜市議選に立候補した過去
菅義偉が初めて国政の現場を垣間見たのは、1984年5月からのおよそ半年間だった。有力後援者からの推薦により通産大臣秘書官になった菅は、小此木のスキャンダルに見舞われる。小此木家の三男として衆院議員と…
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衆院議員秘書時代は先輩を出し抜いて「大臣秘書官」に
私鉄工事のゼネコン利権を駆使し、政治家の事務所で成りあがる。端的にいえば、菅義偉が政界で“叩き上げ”と呼ばれるゆえんは、そこにある。この古典的な政治手法は、本連載の12回目で紹介した小此木系の神奈川…
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議員秘書時代の菅義偉は末端から先輩を蹴落としていった
1970年代半ば、小此木彦三郎事務所の末端の秘書から政界暮らしをスタートさせた菅義偉は、どうやって成りあがっていったのか。 「菅さんが小此木事務所に入った頃、そうそうたる秘書がいました。7人ほ…
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「義理と人情とやせ我慢」を叩き込まれた衆院議員秘書時代
秋田の名士の息子として生まれ育った菅義偉は、上京した頃について、「思い出したくない暗い青春だった」と語ったことがあるが、ある意味、それは本音かもしれない。目的もなくただフラフラしていた生活は、197…
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「政治の師」より梶山静六や野中広務の名前を強調する理由
10月に入ったので、9月16日の菅義偉新政権誕生以降の2週間、新聞各紙が掲載する首相動静で、月内に首相の会っためぼしい経済人を拾いあげてみた。日銀や政府関係者を除くと、次のような顔ぶれが並ぶ。 …
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大学の就職課を通じ議員秘書に 野心も野望もない政界入り
菅義偉は法政大学を卒業して2年後の1975年4月、横浜選出の自民党衆院議員、小此木彦三郎事務所に採用された。 「小此木さんの名前も知らず、政治の道に入りたいっていうだけの話だから、選り好みなん…
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菅氏の郷里の長姉は仕送りを証言…苦学して法大卒業の真偽
<段ボール工場に就職するも、「視野を広げるため、大学で学びたい」という思いを強く抱く。入学金を貯めるため、築地市場の台車運びなどのアルバイトもしながら、アパートに帰れば試験勉強という生活を2年間続ける…
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高校時代の菅青年は「目立ったほうではなく、静かだった」
菅義偉の通った湯沢高校では当時から進学コースが主流で、生徒の4分の3が大学入学を目指した。菅も進学コースに進み、当然のごとく入試に備えた。 もうひとり、菅の湯沢高校時代の同級生だった小川健吉…
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菅家は恵まれた家 姉2人は国立大に、弟は慶大に進んだ
秋ノ宮中学校を卒業した菅義偉は1964年4月、秋田県立湯沢高校に入学した。東京五輪が開かれる半年前のことだ。戦後の混乱から抜け出し、高度経済成長に東京が沸き立つ半面、東北の農村の暮らしはまだまだ楽で…
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菅氏の実父は地元議員を4期 同級生が羨ましがった裕福な家
菅義偉の実父・和三郎が生み出し、全国的にメジャーになった秋田県のブランドイチゴ「ニューワサ」は、その評判を聞きつけ真似をする産地も出始めた。それは湯沢市議会議長だった由利昌司にとっても、自慢のようだ…