金鳳花のフール
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(51)水子の旅行ツアーがはじまった
三 ごめんだごめんだ、成仏だなんて エミューと二人、葦伏市に戻ったのは翌日の昼だった。 前夜は別荘の床でエミューと眠った。綾瀬は彼女の胸に頭をあずけ、彼女の匂いに包まれて眠った。何も起…
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(50)「マイ・シュガー・ベイブ」だね
耳が何かをとらえた。 旋律だ。 美しいメロディー。 綾瀬は耳を澄ませた。どこから聞こえてくるのだろう。旋律は近づいてくる。綾瀬が生まれる前、ずっと昔のメロディー。綾瀬は近くの…
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(49)エミューの心のこもった長生キス
「ごめん」 綾瀬は意気消沈した子供の顔でエミューに謝った。 「ぼくが無神経すぎた」 「お湯の入っていない湯船にしゃがんでる人類って、この世で最も間抜けな被写体ね」 エミュー…
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(48)膝の上に抱いたエミューに頬ずり
エミューは母親の顔で見えない子供服を純一にあてがう。 「柄物は嫌だ」 「じゃ、無地のセーターをどうぞ」 「無地も嫌だ」 「胸にクマさんの顔、お腹にウサギさんの顔がプリントして…
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(47)こんな家であなたを育てたかった
綾瀬はよほどエミューを抱き上げて運んでやろうかと思ったが、その考えが適切ではないことに思い至った。エミューは綾瀬のキスを首筋に受けて母親の威厳をどのように示すかを考慮中なのかもしれない。今、体に触れ…
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(46)バスの中でエミューの首筋にキス
二人が座っているのはバスの最後部だ。他に乗客はいない。綾瀬はエミューの髪をかきわけ、首筋にキスした。触れた唇をそっと上下させる。 「ママにするキスじゃない」 エミューの目が非難した。 …
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(45)22歳の姿のままの私は魔物
女の子供がむずかり出した。女は面倒臭そうに子供の相手を始める。 綾瀬はその機を逃さず立ち上がった。逃げるように女のいる場所から離れた。エミューに声をかけ、彼女の手を引いた。エミューは母親達と…
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(44)きれいな奥様だとご心配ね
エミューは綾瀬の頭を抱き寄せた。 拍手が起こった。 庭にいる若い母親全員が綾瀬とエミューの方をむいて拍手をしているのだ。 母親達とは離れているので二人の会話は聞こえていないは…
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(43)広い座敷は母子の安らいの場
ベビーカーと女性用自転車と買い物用カートが庭先に静物のように並んでいる。 その向こうには若い母親達と子供の姿がある。一歳ぐらいの幼児が危なっかしい動きで庭を歩き回る。玩具のスコップで穴掘りに…
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(42)母親を興奮させてどうするつもり
彼は身長百七十五センチ、体重六十五キロ、妹曰く、偶蹄目系の目鼻がやや大きめの口と一緒に面長の顔におさまっている。若い頃のボブ・ディランみたいな髪型は綾瀬の身体の中で一番好ましいものだとか。出で立ちは…
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(40)廊下を横切る蛆は怒りの産物
演出家は続ける。 「彼女は二人の男が世を去って初めて自由を得たのです。娘も同じです。彼女も母親に似て男に忍従することを受け入れて生きてきた。母と娘、女同士の穏やかな暮らしに彼女等は人生の充足を…
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(39)猿顔は間近で見るとより凄味
「兄さん、本当にどうしちゃったのかしら」 妹がドアを見つめて言う。 「天井いっぱいに皮膚が動くって何?」 母親は視線を宙に泳がせる。彼女の目にもそれが映っているかのようだ。 …
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(38)主宰・田野の顔はまるで猩猩
カヌー工房の見学より、劇団「カーバンクル」の稽古場を見るのが先になった。見学を頼み込んだ側が約束をすっぽかすという無礼な顛末になったので、当分は相手にしてもらえまいとあきらめていたのが、すんなりと受…
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(37)頬は薔薇色に、口元にはソース
「野球帽をかぶるときは、まとめ髪にして帽子の中に髪をたくし込む。そうすると若い女も中年女も婆さんもすべて可愛くなる。ショートの髪で帽子をかぶるのとは一味違う。そこがミソだ」 「お兄ちゃんの好みっ…
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(36)運命までがぼくを誤解している
綾瀬は窓辺に立っていた。 「何か質の悪いものに取り憑かれたのか、先祖の因果が巡ってぼくを貶めようとしてるのか。ぼくは平凡に生きたい。馬鹿笑いをする悪夢は絵の中だけでたくさんだ。運命までがぼくを…
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(35)巨大たこ焼きの大崩落で被害は甚大
直径二キロメートルのたこ焼きが五つ出現したらどうなるか。焼き立ての熱々のたこ焼きだ。綾瀬と麦はそれによって起こる都市の被害状況を想定してみたものだ。 五つのたこ焼きは自重に耐えきれず崩れる。…
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(34)お兄ちゃんは金鳳花だね
「髪、ボブにしちゃったからまとめ髪にしにくいの。ボブの野球帽も可愛いでしょ」 麦は悪戯っぽい視線を送って来る。綾瀬は心の中を読まれていた。 「今日は意地でも来てやらないと思ったけど、やっ…
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(33)19歳の臭いが鼻孔をくすぐる
まったく憶えがない。 綾瀬は蜥蜴の皮をかぶった太陽の話を妹にしていたのだ。記憶から抜け落ちているのは何度もその話を口にしていないということだ。 ただ一度だけ、精神の迷路が解かれて綾瀬…
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(32)トカゲの皮をかぶって昇る太陽
綾瀬は瞼を指で押さえた。稽古場の見学を頼んでおいてすっぽかした。麦の面目も丸つぶれだ。彼女は劇団の主宰者にどう言いわけをしたのだろうか。綾瀬は麦に電話を入れた。麦は応答しなかった。綾瀬はパソコンの前…
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(31)帰りは無愛想な胎児が運転手
水子の郷を去るとき、多少の混乱があった。 タキグチに急な任務ができ、綾瀬を送り届ける役割を果たせなくなったのだ。 「申し訳ありません。帰り道は御同行できなくなりました」 タキグ…