沢野ひとし「ラ・ラ・ラプソディー in 昭和」
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梓みちよ「二人でお酒を」のラストの歌詞が胸に突き刺さる
「♪うらみっこなしで 別れましょうね」「♪さらりと水に すべて流して」 「二人でお酒を」(作詞・山上路夫/作曲・平尾昌晃)の曲を聞いたとき、テンポの良い大人の恋の歌と感心した。時は1974(昭和…
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映画「喜びも悲しみも幾年月」で灯台守の厳しさを知った
中学1年生の遠足で銚子の犬吠埼灯台の見学に行った。先生がガリ版で作ってくれた歌集をバスの中で歌った。「静かな湖畔」を「♪カッコウ カッコウ」と3部合唱したとき、生徒は高揚していた。 しばらく…
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野坂昭如の「黒の舟歌」は一人で暗い河をいく姿が浮かぶ
1970年代を振り返ると作家の野坂昭如が圧倒的な存在感を見せていた。「火垂るの墓」「エロ事師たち」などの名作を数多く持ち、さらに自ら焼跡闇市派と名のり、既成の良識に反抗してテレビの世界でも暴れていた…
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「テネシー・ワルツ」と横田基地の思い出
カントリー&ウエスタンの中で日本で最も歌われてきたのが「テネシー・ワルツ」(作詞レッド・スチュワート/作曲ピー・ウィー・キング)である。1952(昭和27)年に江利チエミによってカバーされ、大ヒット…
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自分が亡くなったら坂庭省吾さん「別れのうた」を流してほしい
会社勤めを辞めてフリーになったのは30代の終わり、1985(昭和60)年の頃であった。日本経済がバブルに踊っているときで、出版や広告と仕事がいくらでもあった。 30代の頃から古い建物を見て回…
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オヤジがここに青春があるとしがみつく「学生街の喫茶店」
GAROの「学生街の喫茶店」をテレビで見たときに、3人組の絶妙なハーモニーとギターのうまさに感心した。「♪君とよくこの店に 来たものさ」。出だしがカレッジフォーク調の歌詞で、刻むリズムが気持ち良い。…
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一青窈は本物の歌手。「ハナミズキ」は台北のホテルでもしみじみ聞いた
一青窈の歌を実際に聴いたのは、およそ10年前の秋の頃だった。我が町の市民ホールに笑顔で手を振って現れた。大ホールには老若男女と満席で、特に目立ったのは母親と娘のコンビであった。 ステージの一…
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スキー場のレストランに流れていた高石ともや「想い出の赤いヤッケ」
初めてスキーを履いたのは1960(昭和35)年である。前年に冬季オリンピックで3冠王をとったオーストリアのトニー・ザイラーが来日して、映画「銀嶺の王者」で鰐淵晴子と共演した。これがきっかけで日本にス…
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「旅愁」を口にすると日本の原風景が浮かぶ
小学生の頃にハーモニカを手に、最初に覚えたのが「旅愁」であった。「ふけゆく秋の夜 旅の空の」(ソミソド~ ラドドソ~)と毎日のように縁側で繰り返し吹いていた。あるとき、中学生の兄に「旅愁は外国の曲だ…
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高校の校舎を出るとみな大声で歌った「潮来笠」
これまでの人生を振り返ると、高校時代が最も充実していた気がする。大人になるための基礎固めがそこにあった。千葉の市立高校に通っていた。駅からバス通りを歩き、麦畑の道を上り、丘の上に校舎はあった。遠くに…
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山仲間の忘年会は「湯の町エレジー」から始める渋さ
山の仲間の忘年会は伊豆の湯河原と、この数年定着した。幕山公園内に幕岩というクライミングエリアがあり、関東のクライマーの冬の定番コースである。日当たりが良く一日中岩にしがみつける。早めの夕方に近くの温…
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青葉城跡を一緒に歩いた彼女との思い出
30代の終わりの頃まで児童書出版社に勤めていた。主に書店回りの仕事で、北海道、東北地方などの北の書店を担当して、年に1、2回ほど訪問していた。 営業は、自社の本をとにかく書棚に置いてもらうこ…
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あの目黒考二がウォークマンで「セーラー服と機関銃」を聞いていた
1981(昭和56)年、「セーラー服と機関銃」を歌う薬師丸ひろ子の透明な声が街に盛んに流れていた。角川映画が次々にヒットを飛ばし、それまでの保守的な映画界に、揺さぶりをかけていた時代であった。 …
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『銀座の恋の物語』をデュエットすると「愛が深まりデキタ関係」と妄想に陥りやすい
最近はもう外で飲むことは少なくなったが、まあ長い間新宿で飲んだくれていた。主に3丁目の「池林房」周辺がたまり場であった。会えば出版や音楽関係者と埒もない話に明け暮れていた。 2次会になるとカ…
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秩父の山を見つめていると「千の風」がはっきりと見えた
「千の風になって」。歌/秋川雅史、日本語詞・作曲/新井満。この曲を初めて聞いたときに、何とも不思議な気持ちになった。 すでに亡くなった人が、まだ存命している人に「私のお墓の前で 泣かないでくだ…
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山口百恵は、大人でも子どもでもない妖しい魅力に包まれていた
1978(昭和53)年、山口百恵の「いい日旅立ち」(作詞・作曲 谷村新司)が国鉄(現JR)のキャンペーンソングとして繰り返しテレビから流れてきた。 瀬戸内海の近くを列車が走り、叙情的な風景が…
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内田裕也は皆んな避けて通りたかったのに、昭和の偉大なるエンターテイターだった
内田裕也とザ・フラワーズを初めて見たのは1969(昭和44)年前後であった。当時はジャズ喫茶と呼ばれていた、新宿のACBと池袋のドラムのステージで忽然と立っていた。 内田裕也はマイクにピッタ…
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今でも暗譜している「みかんの花咲く丘」は、消えたアメリカ人の居場所を教えてくれた
童謡「みかんの花咲く丘」は1946(昭和21)年にNHKラジオ「空の劇場」で歌われた。終戦直後の日本は「国破れて山河あり」の状態であった。東海道線の丘の上には、夏はみかんの白い花が咲き乱れていた。 …
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赤岳に向いながら男4人で、水戸黄門「ああ人生に涙あり」を歌った
10代の終わりから山登りが趣味であった。 歩いていると都会での悩みがやがて消えていく。深い森やどこまでも続く峰々、満天の星を見つめると、自然界のエネルギーを体ではっきり感じる。 長い…
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「別れの磯千鳥」は高校時代に千葉の海岸で飽きるほど歌った
井上ひろしの「雨に咲く花」は1960(昭和35)年に約100万枚の大ヒットをした。このヒットによりリバイバルブームが巷にあふれ出した。 B面に「別れの磯千鳥」があり、この曲はちょうど高校に入…