五木寛之 流されゆく日々
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連載11017回 日刊ゲンダイ創刊のころ <6>
(前回のつづき) きょうは疲れた。そのことを書く。 東京発の“つばさ”137号で山形へ行ったのだ。午後2時すぎに米沢到着。 迎えのワゴン車で川西町へ。 「千二百メートル級の山に囲まれた盆…
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連載11016回 日刊ゲンダイ創刊のころ <5>
(昨日のつづき) なにしろ45年前の事だから、記憶が曖昧なのは仕方がない。昔のことをあまりくわしく憶えていると、新しい知識がはいってこないのである。 人づてに聞いたところでは『夕刊フジ』の創刊…
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連載11015回 日刊ゲンダイ創刊のころ <4>
(昨日のつづき) 川鍋さんの話を書けば、それだけで一冊の本になるだろう。古い表現でいえば「都会的な快男子」だった。どちらかといえば痩せ型で細身のタイプだが、男気のある文学青年でもあった。 酔う…
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連載11014回 日刊ゲンダイ創刊のころ <3>
(昨日のつづき) 川鍋さんからのいきなりの申し入れで、とにかく表紙写真の件はOKした。 「しかし、週刊誌の表紙を男性にして、はたしてうまくいくものかね。いくらミスターでも、スポーツ紙とはちがうん…
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連載11013回 日刊ゲンダイ創刊のころ <2>
(昨日のつづき) 砂漠の熱風のような当時のジャーナリズムの嵐のなかで、『夕刊フジ』が颯爽と登場したのがその頃である。 当時のテレビや新聞に、<オレンジ色の憎いやつ!>というコピーが氾濫したこと…
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連載11012回 日刊ゲンダイ創刊のころ <1>
『日刊ゲンダイ』が創刊45周年を迎えるという。よくも今日まで続いたものだ。 などと他人事みたいな言い方をしているが、考えてみると、この『流されゆく日々』の連載も46年目にはいるということではないか…
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連載11011回 秋ふかき隣りは何を <4>
(昨日のつづき) 近くの書店まで出かけようと外へ出て、マスクをし忘れていることに気づいた。マスクなしではタクシーにも乗れないので、あわてて取りにもどった。 マスクをしていない客を、乗車拒否する…
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連載11010回 秋ふかき隣りは何を <3>
(前回のつづき) ところで、どこの国にも「国民詩人」とされる人びとが数多くいる。ロシアではプーシキン、レールモントフ、エセーニンなどの詩人たちだ。 ある人がこんなことを言っていた。 「わが国…
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連載11009回 秋ふかき隣りは何を <2>
(前回のつづき) 今回のノーベル賞は、米国の女性詩人にあたえられた。 今さら「詩の復権」を云々するまでもない。世界中どの国でも、詩人が文芸の主役なのだ。「識字率は高いが、識詩率は低い日本」とい…
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連載11008回 秋ふかし隣りは何を <1>
コロナ猖獗の残り火がまだくすぶり続けている中、今年もついに11月となった。 欧米では第3波の襲来が予断をゆるさない状況らしい。フランス全土で再び外出制限とは、新型コロナの粘り腰、おそるべし。 …
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連載11007回 後半50年の希望と絶望 <10>
(昨日のつづき) 最近、芸能人や有名人の自殺が話題になるとともに、なんとなく自殺が増加したような印象がある。 しかし、実際には昨年、10年連続で、自殺者の数は減少しているという。(10・28毎…
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連載11006回 後半50年の希望と絶望 <9>
(昨日のつづき) 新型コロナウイルスの猖獗以来、世界は変ったか。それともザワついているのは表面だけで、その本質は変らぬままなのか。 ポストコロナという言葉が、あたりに満ちあふれている。しかし、…
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連載11005回 後半50年の希望と絶望 <8>
(昨日のつづき) <後半50年>というのは、人の一生に関してだけのことではない。 国家にも、企業にも、登山の時期もあれば下山の時期もあるのだ。 それは大きな生命体のリズムのようなもので、人為…
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連載11004回 後半50年の希望と絶望 <7>
(昨日のつづき) トランプか、バイデンか。 世界中がかたずを飲んで見守っている米国大統領選挙が迫ってきた。当のアメリカだけでなく、外国からもこれほど注目された選挙はないだろう。 しかし、そ…
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連載11003回 後半50年の希望と絶望 <6>
(昨日のつづき) 先週に続いて同じテーマで書く。 ここでいう「後半50年」というのは、50歳を過ぎてからの後半50年のことだ。「人生百年時代」がほぼ現実のものとなった以上、悪くすれば誰でもがそ…
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連載11002回 後半50年の希望と絶望 <5>
(昨日のつづき) 高齢者の習性の一つは、よく新聞を読むことである。私もその例にもれず、このところ時間をかけて新聞に目を通すようになった。 朝、毎、読、日経、産経、東京と最低6紙は丹念に読む。ほ…
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連載11001回 後半50年の希望と絶望 <4>
(昨日のつづき) このところ立て続けにいくつかの新聞・雑誌のインターヴューを受けた。 それぞれ取材の意図はちがうが、最後に必ず同じ質問に落ちつく。 「ポスト・コロナの世界はどうなるのでしょう…
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連載11000回 後半50年の希望と絶望 <3>
(昨日のつづき) 百寿者の数が万の単位で増大していく現在、後半50年をどう生きるかこそが、リアルな問題である。 いわゆる人生論というやつは、ほとんどが人生前半の50年について語られたものばかり…
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連載10999回 後半50年の希望と絶望 <2>
(昨日のつづき) 「人生五十年」の時代は過ぎ、今後、私たちはいやおうなしに後半の50年を生きることになるだろう。 気の遠くなるような現実である。 ふと思うのだが、はたして長く生きることが人間…
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連載10998回 後半50年の希望と絶望 <1>
昔は「人生五十年」と言った。 とはいうものの、誰もが50歳まで生きたわけではない。 つい明治の頃までは、日本人の平均寿命は30歳代後半だったのだ。「人生五十年」というのは、せめて50歳ぐらい…