五木寛之 流されゆく日々
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連載10858回 「サクラサイタ」の憂鬱 <2>
(昨日のつづき) どうやらアメリカはコロナウイルスで大変な騒ぎになっているらしい。ニューヨークは、まるで通夜のような静けさだとか。 打ち合わせに使っているホテルの喫茶ラウンジも、夕方にはクロー…
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連載10857回 「サクラサイタ」の憂鬱 <1>
コロナウイルスの流行のなかでも、今年の桜は例年どおり開花した。 花の下での宴会は禁止されたが、それでも桜の名所にはマスク姿の花見客たちが結構おしよせているようだ。 この数カ月の鬱々とした生活…
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連載10856回 不安の季節の中で <4>
(昨日のつづき) 令和という時代は、どうも波瀾ぶくみの季節のような予感がする。 昭和は大変な時代だった。平成にもいろいろあった。しかし、平成はどうやら乗り切ることができたが、令和はどうだろうか…
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連載10855回 不安の季節の中で <3>
(昨日のつづき) 本日、17日火曜日は、ブックジャーナリストの内田剛さんと対談形式のインターヴュー。最近出した本などをめぐって、1時間はあっというまに過ぎた。 出版不況とかいわれる昨今、新型ウ…
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連載10854回 不安の季節の中で <2>
(昨日のつづき) こんどの新型コロナ・ウイルスの大流行に関して、かつての「サーズ」のことがよく引き合いに出される。 2002年頃から世界的に流行した伝染病だというが、あまり記憶に残っていないの…
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連載10853回 不安の季節の中で <1>
コロナ・ウィルスの蔓延で、いろんな所に様々な影響がでているようだ。カミュの『ペスト』が再び読まれているというゴシップもあったが本当だろうか。 伝染病といえばすぐに思い出すのが、敗戦後の外地での冬…
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連載10852回 私が相続したもの <11>
(昨日のつづき) 昨日のこの欄に文字の間違いがあった。戦時中の記憶についての一節だ。 <上御一人>と書くべきところを、うっかり<神御一人>と原稿に書いてしまった。これは<カミゴイチニン>と読む。…
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連載10851回 私が相続したもの <4>
(昨日のつづき) 私は子供の頃も、そして少年時代も、ほとんど宗教というものに関心がなかった。 昭和の前期、戦争の時代には当然のように神御一人に礼拝し、神社に参拝するのが国民の義務だった。しかし…
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連載10850回 私が相続したもの <3>
(昨日のつづき) この歳になって「後悔」などと言い出せば笑われるにちがいない。「後悔先にたたず」とは、よく言ったものである。 最近、つくづく思うことの一つは、両親のことである。私の両親は、共に…
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連載10849回 私が相続したもの <2>
(昨日のつづき) かつて陸軍の兵士は、ゲートルというものを脚に巻くことになっていました。英語が禁止になっていた時代ですから「巻脚絆」と呼んでいたと思います。 日本軍はドイツやアメリカ軍などとち…
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連載10848回 私が相続したもの <1>
自分は何も相続しなかった。裸一貫で生きてきた。私はずっとそう思っていました。 しかしモノだけが相続したものではないと考えると、まったく視野が変ってきます。 私は昭和7年に生まれました。193…
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連載10847回 「一瞬面授」の人びと <5>
(昨日のつづき) 久野収さんの回想をつづった『面々授受』を読んで感じるのは、いわゆる戦前の知識人たちの柔軟な闊達さと自由さだ。 ポピュリズムの発生と横行の遠因近因は、知の階層化と特権に対する在…
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連載10846回 「一瞬面授」の人びと <4>
(昨日のつづき) 『面々授受』を読むと、久野収さんの愛弟子である佐高信さんは、ずいぶん久野さんに叱られたり、怒鳴られたりしている。 師と弟子の関係の正しいありようは、そういうものだろう。 法…
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連載10845回 「一瞬面授」の人びと <3>
(昨日のつづき) 50年ちかく前の江藤淳さんの選評の続きである。 <とはいうものの、これはやはり女流作家の作品で、女はよく描きわけられているが、視点が父親に切り替えられるところに、やや違和感…
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連載10844回 「一瞬面授」の人びと <2>
(昨日のつづき) なにしろ有力な出版社とか著名な文豪の名前を冠にした文学賞とはちがう地方の賞である。安岡さんや江藤さんにしてみれば、いわば頼まれ仕事なので、たぶん軽い気持ちで接するのだろうと思って…
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連載10843回 「一瞬面授」の人びと <1>
『面々授受』という本がある(佐高信著/岩波現代文庫/社会143)。私が読んだのは文庫本のほうだが、親本のほうは2003年に岩波書店から出ている。 『久野収先生と私』という副題がついているのだが、久野…
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連載10842回 「悲しむ」ということ <4>
(昨日のつづき) 先日、ある若い編集者から一冊の本をもらった。『ボディ・サイレント』という文庫本である。(ロバート・F・マーフィー著/辻信一訳/■(泙のサンズイを取る)凡社ライブラリー)。 著…
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連載10841回 「悲しむ」ということ <3>
(昨日のつづき) 戦後からの半世紀は、この国が戦争の痛手から回復しようとがんばった時期だった。傾斜生産方式という政策のもとに、高度成長の時代までしゃにむに前進し続けたのである。 そんな時代には…
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連載10840回 「悲しむ」ということ <2>
(昨日のつづき) 西欧文化の根底には、悲願というものがない、と認めた上で、北森はこう続ける。 <けれどもエチモロジカル(根源的)に見ていくと、旧約にはちゃんとあるんですよ。「神の悲痛」と…
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連載10839回 「悲しむ」ということ <1>
『神の痛みの神学』の著者、北森嘉蔵がある雑誌のなかで、こういうことを言っている。増谷文雄、曽我量深との鼎談の席での発言である。1968年のことだ。 読んだとき、強い印象を受けた。10年ほどたって再…