喜怒哀楽のサラリーマン時代
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田﨑史郎さん<3>貴重な経験になった2年9カ月の「角栄番」
政治部に入った1979年、衆院選の惨敗から自民党内で「四十日抗争」が起きた。当時は大平正芳総裁に反発していた三木武夫元首相が率いる三木派の担当をし、40日間、朝回り・夜回りを続けたという。 「…
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田﨑史郎さん<2>浦和支局での選挙取材が評価され政治部に
入社して2年9カ月で経済部から浦和支局への配転を命じられた。経済部から地方という“前例”のない異動だった。それを「不当」として会社を訴えることになる。 「先輩たちも僕を応援してくれました。経済…
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田﨑史郎さん<1>カシオの「デジタル時計進出」をスクープ
昨年6月末に時事通信社の特別解説委員を退任した田﨑史郎さん(68)。現在はフリーの政治ジャーナリストとして、報道・情報番組に多数出演している。今年1月からは、駿河台大学の客員教授もこなす。政治の専門…
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歌川たいじさん<5>転職先でリストラされブログをスタート
資生堂でウェブサイト制作の仕事の面白さを知ってから、その仕事をもう少し突き詰めたいと思うようになりました。 またそのころ、今も一緒に住んでいる大切な人が現れたため、転勤のある会社にいることに…
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歌川たいじさん<4>母の死と裁判が精神的な負担となり退社
営業成績を上げ続けるためにルール違反までしていた僕でしたが、それを上司に告白してからは、営業職を離れて研修の講師などの仕事をやることになりました。 上司には正直に話し、「これ以上、目標数値が…
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歌川たいじさん<3>ゲイのキャラで愛されて仕事もこなす
会社員時代、僕はゲイであることを公表してきました。公表というよりバレていたというほうが正確ですが(笑い)。 19、20歳のころまでは、自分がゲイだということを受け入れられませんでした。あの頃…
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歌川たいじさん<2>ルール違反をしてまで成績を上げようと
22歳で就職した人事測定研究所で派遣社員から正社員に採用されたときは中途の扱いでした。ほかの新卒社員たちは皆、国立大学や有名私大を出た人たちばかり。彼らには先輩たちから一流企業の顧客が引き継がれてい…
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歌川たいじさん<1>生きる価値ないという洗脳解いてくれた
両親の離婚、いじめ、虐待……自身の壮絶な経験を描いたコミックエッセー「母さんがどんなに僕を嫌いでも」(KADOKAWA)が昨年11月に映画化された。17歳で家出をして、アルバイトや会社員生活を送りな…
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瀬木比呂志さん<4>職場で孤立も異端の先輩判事からエール
30代半ばから、研究や執筆活動にも精力的に取り組んだ。外に向かって発信し続けたことで、10年余りが経った03年、また05年ごろに大学から声が掛かった。 「有力国立大と公立大の2校から教授になら…
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瀬木比呂志さん<3>民事の裁判官は精神科医に近い部分も
裁判官は、離婚などの親族内の紛争や子の取り合いなどでは逆恨みにあうリスクもある。実際、瀬木さんも体験した。 「ある本人訴訟の原告の裁判でちょっと怖い思いをしました。その人は何回も同じ事件で負け…
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瀬木比呂志さん<2>白黒をはっきりさせない和解に迷いも…
1983年、判事補として静岡地方・家庭裁判所浜松支部に異動した。そこで経験した民事裁判のひとつは、瀬木さんの裁判観の一端を形作るものになったという。交通事故に遭った中学生の少年(および親)と、加害者…
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瀬木比呂志さん<1>息苦しさから米国留学をした判事補時代
1977年に東大法学部を卒業後、裁判官を務めた。2012年、大学教授に転身し、著書「ニッポンの裁判」(講談社)で城山三郎賞を受賞。「裁判官・学者の哲学と意見」(現代書館)や「教養としての現代漫画」(…
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オスマン・サンコンさん<5>「いいとも!」出演で人気者に
アメリカのギニア大使館勤務は約2年間。その後、ギニアに戻ったサンコンさんは、故郷で日本人の奥さんと結婚式を挙げる。奥さんが「日本での出産を望んだ」ため、休職して再び日本の地を踏む。 「ウチの奥…
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オスマン・サンコンさん<4>一番の苦労は酒でトイレに直行
大使館の1等書記官としての待遇は、給料も家も休みも、想像以上にいいものだった。 しかし、一方で苦労も多かった。 「一番大変だったのは、お酒です。イスラム教のギニアでは、お酒を飲む習慣が…
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オスマン・サンコンさん<3>1年目で給料1000ドルの金持ちに
大使館の勤務時間は10時から4時まで。週休2日制で土日は休みだった。 「ランチが1時間あるから、働くのは5時間。ラクですよ。でもね、日本語学校に週に2、3回は通っていたし、夜はけっこう忙しかっ…
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オスマン・サンコンさん<2>大使館員として天皇陛下へ謁見
サンコンさんがギニア大使館の1等書記官として初来日したのは、1972年12月のこと。ギニア大使館開設が大きな目的で、スタッフは大使とサンコンさんの2人だけだった。 「日本にきて最初の仕事は、ギ…
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オスマン・サンコンさん<1>サッカー諦めて国家公務員合格
40代半ば以上の人なら、この外国人を知らない人はいないはず。1984年、人気番組「笑っていいとも!」出演をキッカケに、天然ボケの“変なガイジン”として全国的な人気者になった。オスマン・サンコンさんで…
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今野敏さん<5>警察小説の描写はサラリーマン時代が基に
東芝EMIの第2制作部が丸ごと独立し、1984年4月にレコード会社「ファンハウス」が生まれた。その少し前、第2制作部にいた今野さんは、会社を辞める決意をする。 「僕は81年か82年に退社したと…
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今野敏さん<4>希望した第2制作部に異動も担当は宣伝で…
東芝EMIは制作部が2つに分かれていた。今野さんが在籍した第1制作部はアリスやユーミンをやっていたものの、メインはあくまで演歌や歌謡曲。 チューリップ、甲斐バンド、オフコースといったニューミ…
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今野敏さん<3>TM NETWORKの前身バンドと箱根合宿して制作
のちに「TM NETWORK」となる「SPEEDWAY」は、退社した師匠のディレクターがコンテストで見つけたロックバンドだった。 「置き土産みたいなものです。師匠がすべて話をつけていて、俺が担…