喜怒哀楽のサラリーマン時代
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鈴木美穂さん<8>猪瀬都知事が辞任のタイミングをスクープ
猪瀬都知事(当時)の資金提供問題を報じるニュースを国会で見ながら、国会議員と「これから都庁担当は大変だ」などと他人事のように話していたら、古巣の社会部の部長から電話があり、翌週からの都庁の担当を命じ…
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鈴木美穂さん<7>東日本大震災で被災地取材に迷いが生じて
東日本大震災が発生した時に社会部の遊軍だった鈴木さんは、系列局の宮城テレビに応援で入ることが多かった。 「1~2週間現地で取材して東京に戻り、また出掛けるということの繰り返し。震災が発生すると…
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鈴木美穂さん<6>職場復帰するもフルで働けず再発にも…
抗がん剤治療を終えて12月に職場復帰できるはずだったが、体は思うように動いてくれなかった。更年期障害のような症状が出て集中力が続かなかったり、電車に乗るだけで疲れたり。なんとか仕事に戻れたのは、年が…
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鈴木美穂さん<5>衝撃のがん発覚 手術後は“譫妄”の状態にも
社会人2年目で宮内庁担当の記者をしていた2008年3月、右胸のしこりに違和感を覚えた。それでも病院には行かず、「いずれ消えるかもしれないし」と仕事に打ち込んだ。 気持ちが変わるきっかけになっ…
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鈴木美穂さん<4>両陛下の被災地お見舞い取材では学生ボランティアに間違われた
2年目の7月、宮内庁の担当になった。駆け出しの社会部記者は、警視庁や司法など大所帯のクラブで経験を積んでいくのが一般的。右も左も分からない現場を一人で任されることは少ない。おまけに他社は中堅からベテ…
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鈴木美穂さん<3>ニュース番組のADとして「タダコピ」取材
インドでトラブルに見舞われ、内定取り消しの崖っぷちに追い込まれながら、ギリギリで研修に間に合った。入社前に与えられた課題は、「3カ月間ママチャリ日本縦断」で出会った人たちとの日々を5分間のビデオにま…
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鈴木美穂さん<2>インドでトラブル 内定取り消しの瀬戸際に
慶応女子高に進学してからも、どうすればテレビ局に入れるだろうかと思案していた。テレビ局に知り合いはいないし、話を聞ける相手もいない。つらつらとインターネットで調べていると、フジテレビが開催する就職セ…
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鈴木美穂さん<1>小学校の先生にすすめられたテレビの仕事
日本テレビで記者として働いていた24歳のときに乳がんが見つかり、右胸を全切除。術後は重い副作用にも苦しめられた。職場復帰後は「スッキリ」「情報ライブ ミヤネ屋」内のニュースコーナーでキャスターも務め…
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朱野帰子さん<5>もう心から会社を信じることができない
2002年からマーケティングプランニング会社で7年、09年から製粉会社で1年半。まったく違う風土の2社で働いてきた経験は、「わたし、定時で帰ります。」にも生かされることになりました。 働き方…
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朱野帰子さん<4>転勤辞令を機に退職し専業作家になるも…
2社目の製粉会社に勤め始めたのは、2009年のことでした。実は私の作家デビューもこの年。 転職先の内定をもらったのと同時に、第4回ダ・ヴィンチ文学賞の選考通過の連絡も来ていたのです。結果、大…
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朱野帰子さん<3>転職先は製粉会社 驚くほどホワイトだった
転職して勤めることになった製粉会社では、残業は基本的に禁止。やむを得ず残業するにしても、その理由を書いて、15分、30分単位で申請をしなければいけませんでした。さらに週ごとに1時間あたりの進捗の報告…
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朱野帰子さん<2>飛行機に乗り遅れてから“不眠症”になり…
マーケティングプランニングの会社では、その忙しさからうつ状態も経験しました。 ある日、大阪で行われる会議に向かうための飛行機に乗り遅れてしまったことがあったんです。朝までかかって会議の資料を…
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朱野帰子さん<1>氷河期真っただ中に零細企業に“縁故”入社
絶対に残業をしないと決めている女性社員が、会社の中で出くわすさまざまな理不尽と戦うお仕事小説「わたし、定時で帰ります。」(新潮社)。このヒット作がドラマ化され、16日からTBS系で放送スタートとなる…
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和田京平さん<5>「これからは恩返し。選手の健康ケアも」
1972年の全日本プロレス旗揚げから参加した和田さん。この間、読書家だったジャイアント馬場(99年没、享年61)、天才肌のジャンボ鶴田(00年没、同49)、クマさんの愛称で親しまれた大熊元司(92年…
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和田京平さん<4>「馬場さんは15分前に必ず到着していた」
ジャイアント馬場は自分の寿命が長くないことを分かっていた。 「『あと何年かで車いすだ』とポロリと漏らしたこともありました。長生きできないことは、病院の先生からも伝えられていたのでしょう」 …
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和田京平さん<3>「何年かで車いす」聡明な馬場さんの弱音
和田さんは「ジャンボ鶴田は最強だった」と振り返る。 「プロレスラーというと、豪快に飲んで食べてというイメージを持たれるかもしれませんが、鶴田さんはお酒を一切飲めませんでした。それなのに肝硬変に…
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和田京平さん<2>デストロイヤーさんはマスクを取ると…
和田さんはジャイアント馬場に勧められ、レフェリーに転身した。20歳のころだ。 「先輩のジョー樋口さんは元レスラーで、最盛期は体重も100キロぐらいあった。そのジョーさんからは、『選手の体に触る…
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和田京平さん<1>馬場さんから「リズム感がいいな」と…
全日本プロレスでジャイアント馬場、ジャンボ鶴田をはじめ、デストロイヤーやハンセン、ブロディといった往年の名レスラーに慕われた和田京平さん(64)。今も名誉レフェリーとして巡業に参加し、若手の指導的役…
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田﨑史郎さん<5>梶山静六が言った「絶対は使うな」の重み
キャップになってからも自分で取材していたという田﨑さん。 「後輩の記者が夜回りに出ると、こちらもたとえば金丸信さんに電話して話を聞くわけです。現場から上がってきた話と合わせてみると、情報の見分…
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田﨑史郎さん<4>政治を動かす人物にアクセスできる状況を
1985(昭和60)年に竹下登、金丸信らが田中派を事実上乗っ取り「創政会」を結成した。 「中曽根康弘首相の時代でしたが、実権を握っているのは田中さんで、田中支配と言われていました。その田中派が…