保阪正康 日本史縦横無尽
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共産党は昭和天皇を筆頭に1571人の戦犯名簿を発表した
戦後のGHQによる民主化政策の初期は、市民的自由を認めることで旧体制を打破する点に主眼が置かれた。その結果どうなったか。共産党勢力は日本社会のあらゆる封建勢力を駆逐する主人公として扱われることになっ…
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巣鴨プリズンから勝手に帰宅する戦犯者もいた
もしこの戦争責任者裁判が、日本側の手で行われていたらどうなっていたであろうか。私の予想では、戦勝国の手前、相当派手に弾劾が続いたと思われるのである。しかし、アメリカなどの目の届かないところでは、かな…
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敗戦50年後に発見された戦争責任者裁判に関する緊急勅令案
下村定陸軍大臣は謝罪答弁の中で「陸軍の過去における欠点のために」と言った上で、「幾多戦没の英霊に対して深きご同情を賜わらんことを、この際切にお願い致します」と答えた。下村自身が残したこの答弁に関する…
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「なぜ軍国主義になったのか?」斎藤隆夫の質問に陸相は…
この勅令法案が日の目を見なかったのは、主に2つの理由によると思われる。第一の理由は天皇が渋ったこと。具体的には「昨日までの臣下の者を裁くのは忍びない」と応じなかったためだ。第二はマッカーサーをはじめ…
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吉田茂らの怒りがにじんだ緊急勅令案
日本側で、独自に戦争責任者を裁くという「戦争責任者裁判ニ関スル緊急勅令案」は、その前文で「民心を安定し国家秩序維持に必要なる国民道義を自主的に確立することを目的とする緊急勅令」(原文はカタカナだが、…
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天皇の「難局を乗り切って欲しい」に応じた幣原喜重郎
東久邇内閣に代わって登場したのが、幣原喜重郎内閣であった。天皇は幣原に、この難局を乗り切って欲しいと命じ、幣原は当初は固辞していたが、結局は受け入れることになった。10月9日のことである。 …
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わずか2カ月で倒れた皇族による東久邇内閣
太平洋戦争の敗戦時の首相・鈴木貫太郎の後任は東久邇宮稔彦王であった。近代日本の議会政治の上で皇族内閣が誕生したのは初めてのことであった。昭和天皇は敗戦という事態を混乱なしに乗り切るために前例を破って…
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多くの機関で行われた植民地根性丸出しの「感謝決議」
占領者に対して媚びへつらうことと正義のための内部告発とは本来全く別ものである。しかし、その境目は極めて曖昧だ。「媚態は正義を装い、正義は自己利益を隠す」のである。こうした投書の多くは、かつての暴虐な…
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一貫した情報収集 米国は3年前から東京裁判を調査していた
マッカーサー宛ての手紙を改めて確認しておくと、結果として日本は自らの力で民主主義体制をつくる力を持っていなかったというのが正解であろう。軍国主義下の世の中に不満を抱いたり、憤りを持つ人が大勢いたこと…
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戦後初の総選挙で日本はそれまでの慣習と伝統を覆した
断っておかなければならないのは、マッカーサーに宛てた手紙の中に極めて深刻な内容があったことである。朝鮮からの引き揚げ者の消息が分からないものが多く、そのことを調べていただけないかといった悲痛な文面も…
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マッカーサー「日本人の民主主義理解は12歳の子供と同じ」
マッカーサーに宛てた日本人の手紙は、合計で5万通に及んだという。それほど多くの人々が手紙を書き送ったのだ。 私はそれらの手紙を手にしながら複雑な気持ちであった。嘆願書や陳情の類い、あるいは建…
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「マッカーサー様、あなたが日本の天皇になってください」
昭和20(1945)年の夏の暑い日、戦争は終わった。3年8カ月続いたこの戦争は、つまりは大日本帝国の解体という結果となった。アメリカ、イギリス、中国の指導者名によって示されたポツダム宣言を受諾するこ…
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国民はテロとクーデターの持つ真の怖さを知らなかった
昭和史を俯瞰した時、昭和10年代は極めて異常である。その異常さは11年の2・26事件、12年の盧溝橋事件をきっかけとして太平洋戦争に至るその道筋にある。この2つの難局をもっと理性的、思索的な軍事指導…
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新統制派は2・26事件を国民に知らしめ権力拡大をはかった
新統制派の軍人たちには青年将校の意識と2つの共通点があった。ひとつは無思想、もうひとつは天皇神格化である。特に事件後の陸軍内部で権力を握った寺内寿一、梅津美治郎、東條英機についてはこの2点が指摘でき…
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東條英機ら新統制派は「青年将校の精神」を受け継いだ
明治建軍時の段階にまで及ばなければ2・26事件の本質はわからない。その理由は青年将校の心理そのものにある。彼らは天皇のために自分たちが決起したのであり、大御心と一体化していることを疑っていない。とこ…
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磯部浅一の気持ちは「天皇への呪い」に変わっていった
2・26事件の青年将校を解剖するとき、磯部浅一の存在は特に重要だ。他の被告より1年間処刑が延期されたため事件の推移を見定めたことだけでなく、彼自身の考えが事件の主軸になっているといえるからだ。 …
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2.26事件後の軍事指導部による政治掌握を予見した磯部浅一
2・26事件は2つの形をなぞったクーデター計画であった。1つは青年将校らによる実力行使、もう1つが軍事指導部による政治システムの乗っ取りである。このことを見抜いたのは、実は青年将校のリーダー役だった…
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寺内寿一は天皇を恐懼することなく、首相官邸に乗り込んだ
2・26事件は、青年将校と彼らに引きずられた下士官、兵たちの謀反事件と言えるが、より詳細に見ていくと、この事件の背景にさまざまな思惑が絡んでいることがわかる。 例えば天皇の側近には2つのタイ…
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天皇は2・26事件で軍部が増長することを予見していた
2・26事件が終わってからも、天皇は一人で自らの判断を含めて誤謬がなかったかを確認していた節がある。さらにこの事件を利用して軍事が政治に圧力をかけるのを警戒していた。 3月2日のことである。…
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天皇は「なぜ事件を事前に予測できなかったか」と詰問した
昭和11年2月29日、事件が起きてから4日目である。この日の朝から、反乱軍の下士官と兵士たちに向けてビラが撒かれた。「兵に告ぐ」のビラである。戒厳司令部も午前9時に発表を行い、永田町付近を占拠する一…