保阪正康 日本史縦横無尽
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日本人が「敗戦」と向き合うことは徹底解体からの出発を意味した
終戦か、敗戦かを見ていくことは、日本の近現代史を理解していく上で、意外に重要な問題を含んでいる。なぜならこの違いによって、太平洋戦争の持つ意味が全く異なってくるからだ。 終戦といえば、軍事上…
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吉田茂は「悪魔に息子がいるなら間違いなく東條英機だ」と書簡に書いた
吉田茂は8月15日の玉音放送を聞いた後はしばらく動いていない。反軍的な政治センスの持ち主だけに、敗戦という事態は容易に受け入れたであろうが、しかし国家の姿として複雑な思いを持ったことは間違いない。特…
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敗戦の悲しみと戦争が終わった安堵と喜び 西尾末広が流した「涙の二等分」
政治家たちは、この終戦詔書をどのように受け止めたのか。さまざまな政治家の受け止め方をもう少し見ていこう。主に政治家自身が書き残した回想録を参考に考えたい。 斎藤隆夫の感想をもう少し記しておく…
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斎藤隆夫は「国家之より大事起こるべく、予の予想全く適中す」と記した
終戦詔書について、その文案作成のプロセスにおけるいくつかの字句をめぐる動きを追いかけてきた。細部を見るのでなく、基本的に2つか3つの字句を見ることで、歴史の方向性が問われる事態だったことがわかる。「…
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「朕ハ」に込められた天皇の謝罪 東亜の国々に詫びる形を取っている
外務省の見解で「米英二国並ニ重慶政権ソヴィエート連邦」とあるのは、いまさら中国の政府に意地を張っているように見えて、体面が悪いということであろう。それに重慶政権という言い方の中にも、このような言い方…
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終戦詔書を手直しする過程 第1案「米英重慶並ソヴィエート政府」の意味
「義命」にするか「時運」にするかは、閣議でも議論になっている。「義命」に反対する閣僚からは「表現が難しいのではないか」とか「そもそもこういう語彙があるのか」という意見があった。こうした語を用いることで…
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「敗戦」かそれとも「終戦」か…源は8月14日(第2回の御前会議)にあった
改めて整理すべきことなのであるが、8月14日の第2回の御前会議の様子についてはすでに、歴史的にかなり詳しく史実として知られている。天皇は切々と敗戦を受け入れる状態にあり、現状で推移するならば、この国…
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「時運の赴く所」は政治家による軍部批判だった
安岡正篤によると、「義命ノ存スル所」というのは「春秋左氏伝」の中の「信を以て義を行い義を以て命を為す」からとったものだというのである。日本が敗戦を受け入れるのは戦争に負けたからではなく、戦争という手…
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「『時運の赴く』では時のままに流される意味」と反対した安岡正篤の心情
安岡正篤が手直しした部分がそのまま生かされなかったことで、この詔書は関係者の間でも複雑な受け止め方をされた。その一部を前号までに説明してきたのだが、その部分をさらに補完していきたい。 天皇が…
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詔書の原案 天皇は国体護持を認めない判断にはかかわるべきではない
前述したように原案は第1稿から第2稿へ、いくつか部分的に手直しをした上で8月13日の夜、安岡正篤の元に推敲の意味を込めて届けられた。安岡はこの該当部分について、次のように直したとされている。 …
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国体護持が難しければ、臥薪嘗胆の覚悟で耐えていこう
迫水久常や内閣嘱託の川田瑞穂がまとめた第1稿が、どのようにして最終的に天皇によって読まれた終戦詔書となったのか、もうひとつの例を見ていくことにしよう。終戦詔書は後半部に、よく知られた次のような文言が…
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戦争終結を急がなければ、歴代天皇に対して申し訳ない気という昭和天皇の気持ち
第1稿では、戦火の拡大によって「人類共存」の本義が否定されるといっているが、第2稿では「人類生存」が否定されると変わっている。この違いは精密に検証されなければならないように思う。 戦火の拡大…
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統帥権天皇ながら「政治的天皇」として終結を考える
第1稿に対して、御前会議の内容に即してさらに 迫水久常や川田瑞穂らにより手直しが行われた。それを先に見た内容と照らし合わせると、いくつかの重要な違いが出てくる。この直しも紹介しておこう。 「朕…
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政府は戦争の非人道的側面で敗戦を受け入れようとした
まず第1稿では次のようになっていた。少々長くなるのだが、重要な部分なので、以下にそのまま引用しておきたい。 「朕ハ戦局益々不利ニシテ敵国ノ人道ヲ無視セル爆撃ノ日ニ月ニ苛烈ヲ極メ朕カ赤子ノ犠牲益…
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開戦詔書と5つの基本的な違い 終戦詔書の変節を見れば敗戦の具体像を掴める
終戦詔書と太平洋戦争の開戦詔書は、奇妙な例えになるのだが、入り口と出口という言い方もできるであろう。戦争を始め、そして敗戦で終わる。 始めた時の理由と終わった時の理由を整理することで、日本の…
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終戦詔勅「書記官長・迫水久常が3日間徹夜して書いた」は嘘だったのか?
終戦詔書の原案はどのように書かれたのか、誰によって中枢部分が記述されたのか、そのことを改めて確認していこう。終戦内閣と言われる鈴木貫太郎内閣は、こうした文案に対して責任を負わなければならないのだが、…
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78年前のミステリー「終戦詔書の原案」は誰が書いたのか?
書記官長の迫水久常は、2人の人物に相談したとその回顧録(「機関銃下の首相官邸」)の中に書いている。その2人とは、漢学者の川田瑞穂(内閣嘱託)と東洋史の権威とされる安岡正篤である。迫水は、2人に首相官…
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原稿用紙を何枚も破り捨て…迫水久常は極秘の終戦詔書を涙で濡らして書いた
太平洋戦争の末期、日本は平衡感覚を全く失っていた。つまり軍事の指導者層は正常な判断ができない状況に追い込まれていたと言ってもいいかもしれない。政治指導者たちの一部が辛うじて軍事の暴走を止めようとして…
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戦況の悪化に伴い、軍事指導部は妄想に取りつかれていった
戦争末期に吉田茂が逮捕された一件についてその裏側のエピソードを語ってきたのだが、この事件は今も不透明なところがある。その中心は、何としても吉田をアメリカやイギリスと通じているスパイに仕立て上げようと…
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スパイの告白に「今は僕の方が勝ったことになるなあ」と答えた吉田茂
吉田茂の別邸に書生として入り込んだ陸軍省兵務局防諜課のスパイ、東の手記を基に戦後の関係にも触れておくことにしたい。日本の敗戦とともに、スパイとして隠微な役割を演じた課員は、それぞれの生活に戻っていた…