保阪正康 日本史縦横無尽
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終戦を迎え、スパイたちは4日間かけて書類を燃やし工作を隠蔽した
戦火が激しくなった場合、近衛文麿が身を寄せるのは、鶴巻温泉の一角にあるこの別荘であろうとの推測は間違ってはいなかったようだ。陸軍省防諜課のスパイたちが20日間近くかけて電線を引き、マイクロホンをこっ…
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スパイたちは山を越えるほどの電線を張り巡らし、近衛文麿の会話を盗聴した
戦争末期に近衛文麿の動きを監視するようになったのは陸軍の内部に、何としても天皇に講和の方向を模索させてはならないとの思惑があったからだった。天皇を本土決戦に巻き込み、出来うるならば信州の松代に密かに…
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東輝次は鶴巻温泉のY旅館にアジトを変え近衛文麿の監視に移った
近衛文麿の天皇への上奏文は、天皇を驚かし、陸軍を怒らせた。そして吉田茂らのヨハンセングループで事情を知る者は近衛が時局に意思表示をしたことに密かに歓迎の意を示した。各書の書くところでもあるのだが、こ…
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皇道派系軍人で戦況を変えようと考えた近衛文麿の恐怖の感情
この戦争の敗戦はそのまま共産革命につながっている、というのは誰が書いたのか。むろん近衛文麿が天皇に差し出した上奏文だから、近衛の責任で書かれたことになっている。近衛のような貴族階級には、こうした恐怖…
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天皇制軍隊が共産主義に近似しているという「近衛上奏文」
吉田茂が軍事指導部に狙われた理由は、近衛上奏文の内容をヨハンセングループに伝えたという点にあった。近衛が自らの意思を天皇に伝えるのは、意見を求められているのだから当たり前のことであった。しかしその内…
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吉田茂は獄中生活について「一生に一度は入ってみるべきだよ」と言った
吉田茂が釈放されたことは、スパイの東に複雑な感情をもたらした。この辺りの心理は、こうした仕事に携わっている人物に共通の思いであるらしい。あえて手記から引用するならば、「なぜ釈放したんだ。こんなに早く…
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憲兵隊のデマ「吉田さんは裏山で無電を使い外国に情報を送っていた」に怒り
憲兵隊は吉田茂を逮捕したあと、10日間かけて別邸内部の家宅捜査を続けた。むろん目当ての近衛上奏文の写しなど出てくるわけはない。憲兵たちは「何か主人から言われて隠しているものがあるだろう。それを出せ」…
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書生・東の手記「年老いたこの『吉田』が、それほど軍部にとって強敵なんだろうか」
昭和20年4月15日の吉田茂逮捕劇は、書生の東の手記に詳しく書かれている。戦後になって憲兵の側もその経緯を書き残しているが、大体の記録に目を通した感想を言うなら、兵務局防諜課の東の記録が微細にわたっ…
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吉田茂の手紙はスパイによって全て複写された
吉田茂が永田町から大磯の別邸に戻るときは、新橋から大磯までの間に必ず尾行がついた。中折れ帽の新しい背広に身を包んだ紳士2人がついてくる。彼らは大磯駅前の旅館に宿を取って、これ見よがしに吉田の別邸周辺…
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「中野学校のスパイは一個師団に匹敵する」の言葉を胸に青年は吉田邸の内情を探った
吉田茂を中心にしたヨハンセン監視グループの中心に、東は位置していた。大磯の吉田別邸に書生として入り込み、その日常を丹念に見つめていたのだ。彼が戦後になって書き残した手記をもとに、そのスパイ行動を記述…
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三国機関の首魁は取材を申し込んだ私を怒鳴り、田中隆吉のことを口汚く罵った
三国直福は昭和15(1940)年5月に南京特務機関長から陸軍省兵務局付になり、その後、軍事調査部に移り、部長職を務めている。その経歴を見ると分かるように、ある時期からは特務、情報工作などに専念した軍…
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憲兵隊、兵務局のほか東條英機が密かに作った三国機関
戦時下に吉田茂邸に送り込まれたスパイの手記を基に、軍事指導者たちの凄まじい弾圧ぶりを紹介しているのだが、今回は戦後になって軍閥の内幕を暴いた田中隆吉と東條英機政権の確執を書いておきたい。すでに田中の…
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スパイチームの仕掛けは吉田別邸にいる書生を追い出すなど、驚くほど大掛かりだった
吉田茂を中心にしたヨハンセングループの監視は、陸軍省兵務局の防衛課に所属する形で10人ほどのチームによって行われた。その一人である東は、巧みに大磯の吉田別邸に書生として入り込んだ。この10人ほどのメ…
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陸軍省は戦傷をでっち上げて吉田茂にスパイを送り込んだ
大磯の吉田茂の別邸に書生として入り込んだスパイ東の手記によれば、昭和18年の春から中野学校出身者が「思謀関係の盗聴に従事」することになったという。 この年の春、中野学校の卒業生は73人いたそ…
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東と名乗る青年が遺した原稿用紙100枚におよぶ陸軍スパイの手記「防諜記」を見せられた
吉田茂の平河町の自宅には雪子夫人が住んでいたが、昭和16年10月に病死している。そのあとは女中頭が家の中の一切を取り仕切っていたというのだ。その女中頭の元に20歳の女性が女中の一人として、憲兵隊から…
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軍事指導者の焦り…吉田茂に取り入り「近衛上奏文」を盗み出したスパイ
吉田茂の検挙の裏側には、軍事指導者の焦りがあった。すでに東條英機は天皇の信頼を失い、その座を引いている(昭和19年7月)。そのあとを継いだ軍事指導者たちの中には東條の強行路線をひく者も多く、本土決戦…
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中野学校出身者は政治指導者、天皇側近らをスパイした
東條英機首相をはじめ、軍事指導者が戦争指導の全責任を負って戦争は進められた。彼らは政治的経験が全くないため、国民にどのように対峙すればいいかをほとんど知らなかった。そのため、ただひたすら弾圧や威圧で…
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秩父宮は東條英機の木で鼻をくくったような回答を読んで床に伏し死線をさまよった
東條英機首相の自筆の書簡は、彼自身の怒りがそのまま文面に表れていた。「帝国の現段階は一切の国力を挙げて完勝の一途に邁進しておるのですから、人事問題の如きは戦後の議論にして下さい。(略)その是非の論議…
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「連携が良くなっている」秩父宮に届いた東條英機首相からのつっけんどんな回答
東條英機首相と秩父宮のやりとりは、昭和19(1944)年2月から5月まで続いた。陸軍大臣と参謀総長を兼ねるといったほとんど前例のない権力の集中に、秩父宮が表立って抗議あるいは抵抗を試みたのは、兄宮に…
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独裁的な東條英機に、秩父宮は病床から「怒りの質問状」を送りつけた
太平洋戦争の開戦時と戦時下での東條英機内閣の反政府陣営に対する弾圧は、二重の残酷さを持っていた。その人物の社会的立場、信用、さらには経済生活を奪うだけでなく、戦場に徴用して「死」を強要するのである。…