釜本邦茂が語る「ガマッチョの真実」
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メキシコ五輪スペイン戦は0-0狙い…終了間際の杉山隆一の“右ポスト直撃”に肝を冷やした
1968年メキシコ五輪1次リーグB組・3戦目のスペイン戦は「互いに勝ちを相手に譲ろうとする」試合となった。 スペインに勝ってB組の1位になれば、準々決勝は首都から100キロちょっと離れたプエ…
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メキシコ五輪、残り25分のスペイン戦で「引き分けでエエから点取るな、言うてまっせぇ~」
メキシコ五輪1次リーグ3戦目・スペイン戦の前日、長沼健監督や岡野俊一郎コーチら首脳陣は中華料理店「上海」に集まり、スペインのメンバーリストとにらめっこしながら徹底的に議論を重ね……と後になって聞かさ…
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勝ちにいくのか、引き分け狙いか…メキシコ五輪スペイン戦を前に首脳陣が侃々諤々
1968年メキシコ五輪のナイジェリア戦(10月14日)と2戦目のブラジル戦(16日)は、メキシコシティーから南東に100キロほど離れたプエブラ市で開催された。 18日の3戦目スペイン戦は、首…
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メキシコ五輪ブラジル戦ドローで勝ち点1 起死回生のゴールを生んだ日本代表の決まり事
1968年のメキシコ五輪を振り返るに2戦目のブラジル戦の試合終了前、0-1から起死回生のゴールが決まって同点に追い付き、勝ち点1を稼いだことが銅メダル獲得につながったと思う。 日本代表には、…
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強豪ブラジルとドロー! 絶体絶命も開き直ってボールに頭をぶつけた
メキシコ五輪で最初に顔を合わせたナイジェリアは、日本対策をほとんどやってへんかったみたいだったが、次戦の相手ブラジルは日本の情報をちゃんと収集していた。 五輪前年の1967年6月や。ブラジル…
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大ケガを負った八重樫茂生さんの姿を見て「死ぬ気でやらなアカンな」と思った
メキシコ五輪の最初の試合となったナイジェリア戦が行われた1968年10月14日は、日本サッカー界にとって縁起の良い日やった。 ちょうど4年前の東京五輪で強豪アルゼンチンから大金星。同じ日にア…
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五輪史上初のハットトリックはナイジェリア戦途中でMFに下がったことから生まれた
ナイジェリア戦の前半24分に先制点を決めるまでは、ユニホームの肩の部分に「まるで衣紋掛けが入っている」みたいにガチガチやった。 ■ゾーンに入った 1得点に終わった東京五輪から4年。苦し…
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東京五輪から「2.8歳分の経験」を積み上げた選手全員が試合をやりたくてウズウズしとった
1968年10月12日に行われたメキシコ五輪の開会式は、メイン会場のあるメキシコシティーから南東に100キロほど離れたブエブラ市内のホテルでテレビ観戦した。 13日からサッカーの競技日程が始…
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汗ひとつかいていないのに練習終了…メキシコ入り4日目に分かった長沼監督の“真意”
1968年9月22日に羽田空港を飛び立った。 目指すはアメリカ西海岸のロサンゼルス。メキシコの首都メキシコシティーとの時差は1時間。時差ボケ解消のために立ち寄ったというわけやな。 離…
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「メキシコ戦の完敗劇」7カ月後に大きくモノをいうことになる
メキシコ五輪イヤーの1968年3月、開催地メキシコまで遠征してメキシコ五輪代表と対戦して0-4で完敗した。 留学先の西ドイツ(当時)から合流したので時差ボケはなし。でも日本からやってきた選手…
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メキシコ五輪のメイン会場の控室には酸素ボンベが設置されていた
1968年メキシコ五輪のアジア予選(67年9月27日~10月10日)を突破した後、長野・伊那市の入笠高原(標高1900メートル)で初めて高地トレーニングをやった。 メキシコ五輪では標高200…
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メキシコ入りを前に「こないにベストの状態はあらへんぞ」と自信が漲った
20歳で出場した1964年東京五輪は、4試合に出場して1得点に終わった。それも大阪開催の順位決定戦のユーゴスラビア戦の後半16分、0-5とリードされた状況でのゴールやった。 MF八重樫茂生さ…
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神様ペレは別次元過ぎて「手本にしよう」とすら思わなかった
西ドイツへのサッカー留学中(1968年1月中旬から約2カ月)、寝泊まりしていたザールブリュッケン市のスポーツシューレには図書室があり、備え付けの映写機でW杯、欧州選手権、欧州リーグの貴重な試合を収め…
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1966年W杯得点王の“黒豹”エウゼビオは「手本になる!」と確信した
ヤンマーに入社した翌1968年の1月、単身でサッカー留学に赴いた西ドイツ(当時)西南部のザールブリュッケン市は、もちろん厳しい寒さの真っただ中だった。 寝泊まりしたスポーツシューレ(総合スポ…
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メキシコ五輪イヤーの日本リーグで“会心のゴール”を連発した
メキシコ五輪が行われた1968年の1月、西ドイツ(当時)で2カ月ちょっとやったかな、サッカー留学したことが大きな転機となった。 頭も体もきっちりと鍛えられ、日に日に欧州仕様のストライカーにな…
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アーセナル相手に「もう一度やってみろ」と言われても到底できない会心の一撃を決めた
早稲田大を卒業してヤンマーに入社した翌1968年1月18日、西ドイツ(当時)西南部のザールブリュッケン市に到着した。2カ月ちょっとのサッカー留学である。 最終日の3月20日、270キロほど離…
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留学先のプロのクラブから「ウチでプレーしてくれ」と懇願された
西ドイツ(当時)西南部の古都ザールブリュッケンに1968年1月18日から3月20日まで滞在した。サッカー留学中の水先案内人は、後に西ドイツ代表監督として80年欧州選手権優勝、82年W杯準優勝という輝…
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西ドイツ留学で日に日に自分のプレーが“欧州仕様”になっていくのが分かった
1968年の1月18日に西ドイツ(当時)のザールブリュッケン市に到着した。ここのスポーツシューレに寝泊まりしながら、本場のサッカーを学ぶためである。 17日に来日していた西ドイツ五輪代表と対…
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単身で西ドイツ留学 プロ予備軍の群れに放り込まれ一本もパスが回ってこなかった
メキシコ五輪イヤーの1968年を迎え、1月17日に東京・国立競技場で西ドイツ(当時)の五輪代表と強化マッチを行い、翌18日の帰国便に同乗した。「日本サッカーの父」と言われたクラマーさんも一緒だった。…
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韓国に追い付かれ味方DFに思わず「こっちが入れよるわりによう奪われとるやないか」
1968年メキシコ五輪のアジア予選・韓国戦(67年10月7日)は国立競技場で行われ、5万人以上の大観衆で超満員だった。 前半を2-0で折り返したが、後半に1点を返されて24分に同点弾を決めら…