五木寛之 流されゆく日々
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連載11257回 49年目の泉鏡花賞 <3>
(昨日のつづき) 四十数年前の鏡花賞は、すこぶる情緒があった。セレモニーもそうだし、会の終った後の流れのあれこれが楽しかったのだ。 初期の頃の選考委員は、井上靖さん、瀬戸内晴美さん、吉行淳之介…
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連載11256回 49年目の泉鏡花賞 <2>
(昨日のつづき) 泉鏡花文学賞には、3つの部門がある。 1つは全国の文芸ジャーナリズムを視野に入れた文学賞で、その年刊行された作品の中から、地元の推薦委員会によって候補作を推薦された作品を中心…
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連載11255回 49年目の泉鏡花賞 <1>
金沢へいってきた。恒例の泉鏡花文学賞の授賞式に参加するためだ。年末のあわただしい日程の隙間をやりくりしての瞬間旅行である。 泉鏡花文学賞は金沢の文学賞である。文学賞というのは、ふつう大出版社か新…
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連載11254回 一九五〇年代の記憶 <4>
(昨日のつづき) 当時、私たちの仲間は、フランス文学派とロシア文学派に分かれていた。カミュ、サルトルの全盛時代だったが、一方でちょっとクラシックな『ジャン=クリストフ』や、『チボー家の人びと』など…
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連載11253回 一九五〇年代の記憶 <3>
(昨日のつづき) きょう3日は宮崎日日新聞のインタヴューのあと、『一期一会の人びと』のゲラを読み返す。これは内田裕也と川端康成と、ミック・ジャガーと浅川マキをごっちゃにした本で中公から出る。あとマ…
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連載11252回 一九五〇年代の記憶 <2>
(昨日のつづき) 1960年代というのは、比較的、印象が強烈だ。 それにくらべると、50年代というのは、どこか鮮やかな彩りがない。朝鮮戦争もベトナム戦争にくらべると、なぜか記憶が曖昧である。米…
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連載11251回 一九五〇年代の記憶 <1>
1950年代の思い出話を書く。 私が九州から上京したのは、1952年(昭和27年)の春だった。 博多から東京駅まで、ベラぼうに時間がかかったのをおぼえている。特急は料金が高いので、鈍行を乗り…
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連載11250回 「私の親鸞」そとがき <5>
(昨日のつづき) 親鸞と私の出会いは、そういうものだった。そして私は親鸞の思想に触れることで、自分の生きる意味を示されたような気がした。しかし、頭で理解することと、体全体で実感することはちがう。 …
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連載11249回 「私の親鸞」そとがき <4>
(昨日のつづき) 私が金沢に移住したのは、個人的な事情もあった。だが、それ以上に東京の今の生活から逃亡したい、という気持ちのほうが強かったことはまちがいない。 金沢にいって、しばらくは無為の日…
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連載11248回 「私の親鸞」そとがき <3>
(昨日のつづき) 引揚げ後の中学、高校時代を、私は一見、快活そうな少年として過ごした。新聞部を立ちあげて幼稚な連載小説めいたものを書いたり、アルバイトに精を出したりした。 『青い山脈』という青春…
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連載11247回 「私の親鸞」そとがき <2>
(昨日のつづき) きのうの原稿で「左右の一冊」とあるのは、「座右の一冊」のまちがい。 なにしろ締切りのギリギリで原稿を入れるので、字の間違いはちょくちょくある。この何十年間、ずっとストックなし…
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連載11246回 「私の親鸞」そとがき <1>
<そとがき>なんて言葉はない。 <まえがき>とか、<あとがき>などというのが普通である。 しかし、こんど出した『私の親鸞』(新潮社刊)には、<あとがき>も<まえがき>もついている。 その上に…
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連載11245回 虚構の真実のラビュリントス <5>
(昨日のつづき) 美術コレクターの間で通用する言葉に「目垢がつく」という表現がある。貴重な名作などを手に入れた場合に、できるだけ人に見せないようにすることを言うらしい。 「あまり人さまにお見せす…
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連載11244回 虚構の真実のラビュリントス <4>
(昨日のつづき) 20代の頃の私が編集長兼カメラマンをつとめていたのは、『交通ジャーナル』という吹けば飛ぶような業界新聞だった。業界紙といっても日刊一般紙に負けない堂々たる新聞も沢山ある。最近は専…
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連載11243回 虚構と真実のラビュリントス <3>
(昨日のつづき) ここで訂正をひとつ。 昨日のこのコラムで字の間違いが1つあった。<(前略)ヘミングウエイふうに強直であり、同時にチャンドラー的に優しい。(後略)>という部分の強直は、もちろん…
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連載11242回 虚構と真実のラビュリントス <2>
(昨日のつづき) 写真集『奴は…』のオビには<長濱治が捉えた北方謙三40年の軌跡――。 今の時代に足りない強さと愛らしさが濃縮された「北方ダンディズム」の極致>とある。 『奴は…』の作者名は長濱…
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連載11241回 虚構と真実のラビュリントス <1>
とんでもない写真集が出た。 写真家・長濱治が作家・北方謙三を撮った『奴は…』という重量感たっぷりの一冊である。私は本を、その重さで評価する悪癖があり、新刊を手にしたとき、軽量、中量、重量級と分別…
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連載11240回 ニュー・ノーマルの風景 <5>
(昨日のつづき) 造語というのは、新しい言葉を勝手に作ることである。言い替えというのは、事実をゴマ化すために造語することだ。 戦争の時代、いろんな言葉が言い替えられた。有名な例は全滅を「玉砕」…
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連載11239回 ニュー・ノーマルの風景 <4>
(昨日のつづき) マスク生活が定着したのはいいが、初対面の相手の顔がおぼえられなくて困っている。 「どうぞよろしく」 と、名刺交換をしても、 「ちょっとマスクを外して、お顔を拝見できません…
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連載11238回 ニュー・ノーマルの風景 <3>
(昨日のつづき) 昨日のこの欄で紹介したミュージックBOX『歌いながら歩いてきた』について、問い合わせがいろいろあったので、簡単に説明させていただく。 このミュージックBOXは、私の「音楽・歌…