喜怒哀楽のサラリーマン時代
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因幡晃さん<4>最初は夜行列車で上京する“兼業歌手”から
ヤマハの人に誘われても、プロの歌手になるかどうか、迷いました。それで親父に相談したんです。すると、「おまえの人生なんだから、自分で考えろ」って。てっきり「鉱山に就職できたのに、何を言ってんだ!」って…
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因幡晃さん<3>「わかってください」は鼻歌から生まれた
デビュー曲の「わかって下さい」は、僕にとって初めてのオリジナル曲です。それまで曲なんて作ったこともありませんでした。それなのに実験室で仕事をしているときに、ふいに「わか~って~、くださ~い~」ってフ…
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因幡晃さん<2>配属先は鉱石を分離する選鉱の実験室だった
1年目から配属された選鉱の実験室では、鉱石の分析や鉱物を回収する実験の手伝いをしていました。 鉱山での仕事は、まず、鉱物を含んだ塊の原石を掘る「採鉱」からスタートします。その次が、掘り出した…
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因幡晃さん<1>秋田県の鉱山の町に生まれ鉱山に就職
物悲しい歌詞と哀調を帯びた歌声が心に刺さる「わかって下さい」でデビューした因幡さんは、地元秋田の鉱山で技師として働いていた。1975(昭和50)年、第10回ヤマハ・ポピュラーソングコンテストに出場し…
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吉川美代子さん<5>定年前に思い出したのは楽しかったこと
報道局のキャスター時代はいろんな現場から中継しました。1986年、大島の三原山が噴火して全島民が一夜にして避難した後、大島に入って噴火におびえながら中継したこともありました。現場で唯一、男女の違いを…
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吉川美代子さん<4>JAL機墜落 ひたすら名前を読み上げた
「TBSこども音楽コンクール」の地区大会の現場では、演奏が始まる朝8時半から夜7時くらいまで、立ちっぱなしで司会をしていましたね。会場が地元の学校の体育館の場合は、番組スタッフと一緒に床にシートを敷い…
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吉川美代子さん<3>女子アナによる野球選手へのインタビューは当時は画期的だった
入社1年目の10月、ラジオ新番組「野球はドラマだ!」のアシスタントになりました。1時間番組の中に「吉川美代子、花の26人衆」というコーナーが出来たんです。ナイターオフの26週を使って毎週、若手選手ひ…
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吉川美代子さん<2>TBSの面接で山本文郎アナと再会
当時、アナウンサーの採用は不定期だった。採用がある年でも1、2人の狭き門。併願したのは中学教師だった。 「キー局は分かりませんでしたが、地方局は地元有力者の子息のコネが強いと聞いていました。う…
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吉川美代子さん<1>元TBS山本一郎さんに背中を押されて
2014年にTBSを定年退職し、現在はフリーのキャスター、アナウンサーとして活躍する吉川美代子さん(63)。近年は、TBSアナウンススクールで校長を務めた経験を生かし、地方で話し方の講演も行うなど、…
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門倉貴史さん<5>就活もしたが年俸1500万円→800万円では
「第一生命経済研究所にお世話になったのは、2005年まで。辞めたキッカケは部長との折り合いが悪くなったことですね。そのシンクタンクに移った当初は、本当に好きな研究をさせてもらって楽しかったんですが、上…
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門倉貴史さん<4>「夜のビジネス」の講演が外国人に大うけ
シンガポールで2年近くの間、アジア経済の調査を経験した門倉さんは、2002年に帰国後、転職を決意する。 「ワタシが続けていた地下経済の研究は、前例がない研究でした。暴力団や風俗店がらみのテーマ…
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門倉貴史さん<3>援交の経済規模600億円が一番反響があった
門倉さんは「日本の地下経済の規模の研究」と題した論文をまとめ、日本経済研究センターで発表した。2000年のことだ。 「コレが結構ウケたんです。最初にホームページ上で公表して、“面白い成果”だと…
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門倉貴史さん<2>地下経済研究は“朝の石けんの香り”で閃く
バブル崩壊後の就職氷河期のさなか、1995年に門倉さんはサラリーマン生活をスタートさせた。勤務先は横浜銀行のシンクタンクだった。 「仕事は神奈川県下の業界別の経済予測など、けっこう地道な作業で…
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門倉貴史さん<1>通勤が楽、内勤で転勤がない会社を探して
テレビ番組では、いじられキャラのコメンテーターとして人気だ。門倉貴史さん(45)の本職はエコノミスト。慶応大学で理論経済学を学び、「経済の面白さに気付いた」と笑う。色白で優男のような風貌だが、体を張…
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弘兼憲史さん<4>松下電器退社後は同期の仲間が仕事くれた
25歳で松下電器を退社して漫画家の道を歩みました。上司に相談したら、少しは引き留められるかと思ってましたが、こちらが拍子抜けするほど意外とあっさり認められました。漫画家の方が向いていると思われたのか…
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弘兼憲史さん<3>亡くなった父からは戦争と映画を学んだ
「中小企業共済にだけは入った方がいいぞ」 僕が松下電器産業(現パナソニック)を辞めたことを事後報告で電話で話した時、寡黙な父はこれだけアドバイスしてきました。息子の決めたことに反対はしないが、…
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弘兼憲史さん<2>松下電器3年目 漫画のことなど忘れていた
6カ月の新人社員研修を終え、販売助成部への配属を希望しました。営業本部の下に当たる部署で、第2希望がテレビ営業部の宣伝部門です。 運良く販売助成部に2人のうちの1人として配属され、ポスターや…
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弘兼憲史さん<1>初任給4万1000円が入社3年目には11万2500円
1970年に松下電器産業(現・パナソニック)に入ってまず驚いたのは、月給の上がり方でした。1年目の初任給が4万1000円、半分の2万円を社内預金に回しました。これが2年目になると8万円に跳ね上がり、…
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天井作業中 感電しかけて脚立から飛び降りたら激怒された
渚さんは、仕事を辞めるまでの5年間、ずっと親方と“コンビ”を組んでいた。現場では、いつも優しく指導され、辞めたいと思ったことはなかったという。だが、一度だけ、めちゃくちゃ怒られたことがあったそうだ。…
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尼神インター渚さん<4>足場を組むとび職には逆らえない
現場では、建築関係ならではの人間関係も経験した。最も立場が強いのは、とび職だ。 「とびは、どの職種よりも先に現場に入り、仮囲い(柵)を組んで基礎鉄骨を建てる。それから、建物の外周に足場を組むわ…