喜怒哀楽のサラリーマン時代
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雪妃真矢さん<1>フェリス大卒業後は父の勧めで地銀に就職
フェリス女学院大学の英文科を卒業後、銀行に就職――。そんな順風満帆な人生を捨て、プロレスの世界に飛び込んだ女子プロレスラーの雪妃真矢さん。10代デビューも珍しくない女子プロレス界では遅咲きながら、イ…
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瀬川晶司五段<5>第1局で負け「仕事が手につかなかった」
2005年7月、将棋界はもとより多くのマスコミが注目する中、戦後初の「プロ編入試験将棋」がスタートした。奨励会以外からプロ棋士になるルートが開かれたわけで、新聞雑誌は、「サラリーマンの挑戦!」と書き…
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瀬川晶司五段<4>悩み迷った末にプロ棋士への再挑戦を決意
「瀬川君、プロになる気はないのか?」 アマ棋士の先輩・遠藤正樹さんから、アマ棋士の交流会の場でこう尋ねられたのは2004年の暮れのことだ。瀬川さんは戸惑った。 “奨励会を卒業できずに退会…
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瀬川晶司五段<3>同期と“合コン部”結成 持ち回りで幹事に
31歳で新入社員になった瀬川さんのサラリーマン生活は順調だった。 「自宅から会社がある横浜・関内までは歩く時間も入れて1時間ほど。1、2年目こそ覚えることが多くていっぱいいっぱいでしたが、本当…
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瀬川晶司五段<2>1、2年目は仕事を覚えるだけで精いっぱい
2001年4月、瀬川さんは31歳にして初めてのサラリーマン生活をスタートさせる。勤務先は横浜市にあるNECの関連会社、ワイイーシーソリューションズ。配属先は経営企画部だった。 「一応、システム…
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瀬川晶司五段<1>31歳で新卒社員に 年下上司は気にならず
今年の将棋界は、公式戦29連勝を樹立した“最年少プロ”藤井聡太四段(15歳)の活躍で沸きに沸いた。普段は静かな将棋会館(東京・千駄ケ谷)にマスコミが殺到したが、瀬川五段がプロになった12年前にも取材…
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G.G.佐藤さん<4>娘に「パパ、いい加減とってよ」と言われ
佐藤さんは9年前の記憶が脳裏から離れない。 星野仙一監督率いる2008年北京オリンピックの野球日本代表。佐藤さんはメダルをかけた準決勝の対韓国戦で痛恨の2失策。汚名返上の対米国との3位決定戦…
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G.G.佐藤さん<3>外国人技能実習生の相談に乗る父を尊敬
地盤調査・改良工事「トラバース」(本社・市川市)は、フィリピン、ベトナムから多数の外国人技能実習生を受け入れている。 「フィリピンから約20人、ベトナムからも60人ほどの実習生を受け入れていま…
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G.G.佐藤さん<2>ウチの会社は30代後半で年収1000万円超
佐藤さんは、法政大学卒業時のドラフトにはかからず、大リーグのフィリーズ傘下のマイナーチーム(1A)でプレー。24歳で帰国したが、すぐに日本のプロ野球に入団できたわけではない。しばらく、アイドルタレン…
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G.G.佐藤さん<1>測量士補と2級土木施工管理の資格を取得
「わざわざ遠いところまでご足労願いまして……」 親しみやすい笑顔ながら、鍛えられた大胸筋で背広はパンパン。そう、今回登場するのは、プロ野球の西武、ロッテなどで活躍したG.G.佐藤さん(39)だ…
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おかずクラブ・オカリナ<5>患者さんの死に向き合い号泣
4年間働いていた東京の病院は、路上生活の患者や入れ墨が入っている患者もいました。印象的だったのはトラの入れ墨の患者さん。看護師になって1年目に出会いました。トラの目が片目だけしか入ってなくて、どうし…
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おかずクラブ・オカリナ<4>イケメンが入院すると奪い合い
看護師は女社会でしたから、派閥もありましたね。私自身は、輪の中に入らないようにしていたので、トラブルはなかったです。たいてい、看護師長同士は仲が悪いものなので、空気を読み取るのがうまければ、どこから…
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おかずクラブ・オカリナ<3>年間200回 男性の陰部を洗った
看護師を辞めたことは後悔していませんが、もっと勉強しておけばよかったと思うことはあります。こういう仕事をしていた縁か、医師や看護師を求められるような場面に遭遇することが意外に多いんですよ。芸人になっ…
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おかずクラブ・オカリナ<2>合格率90%の試験に1人だけ失敗
高校2年でお笑いの世界を目指しましたが、「病院奨学金」をもらって高校に進学していましたから、卒業後は専門学校に行って、国家試験をパスしてから看護師として3年間働く必要がありました。 卒業後は…
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おかずクラブ・オカリナ<1>「家族を助けたい」と看護師に
中学2年生のとき、同居の祖母が脳梗塞で亡くなりました。ある朝、2階の自室から1階に下りると祖母が倒れていて、母が介抱していたのですが、すでに反応はありませんでした。 それを見たとき、冷静に「…
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加藤治文さん<5>教授選に立候補したら根も葉もないデマが
島津製作所の田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞したときの肩書は、主任。上司に昇任試験を受けるよう勧められていたが、一線で研究を続けたくて拒否し続けていたという。加藤氏も考え方は同じで、「自分のやりたい…
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加藤治文さん<4>世界初の偉業にねたみ 論文破棄の瞬間目撃
1978年、米国で光線力学療法(PDT)の現場を生で見る。乳がんの皮膚転移に対する対症療法で、根治を目指すものではなかった。それを見た加藤氏は、アイデアが浮かんだという。 「肺がんの発がん過程…
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加藤治文さん<3>ジョン・ウェインの執刀医から実地指導
スウェーデンに渡った1970年代、男性の喫煙率は80%近くに上っていた。肺がんの死亡者数は胃がんに次いで2位。胃がんの死亡者数は減少傾向だったが、喫煙率の高止まりもあり、肺がんは右肩上がりだった。 …
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加藤治文さん<2> 病理学の難題を探究心で"満点解答"
加藤氏が医師としてデビューしたころ、豊田自販(現・トヨタ自動車)にもキレる男がいた。将来の社長となる奥田碩だが、仕事はデキても当時の上司だった経理部長との折り合いが悪く、マニラに左遷。そこで前任者が…
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加藤治文さん<1>主任教授の一言で外科から裏方の病理へ
世界が認めるスーパードクターとしてテレビや雑誌に何度も取り上げられている。そのゆえんが、勤務医として東京医大に籍を置いていた1980年、肺がんに対する光線力学療法(PDT)を世界で初めて手掛けたこと…