保阪正康 日本史縦横無尽
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匿名の書簡「福沢重信」氏が明かした昭和天皇の陸軍への不信
書簡の送り人の名は「福沢重信」とある。住所は書いていない。東海地方のある市の消印が押してあった。福沢重信というのは、明らかに福沢諭吉と大隈重信を意識しての名である。実はこの名で昭和から平成に変わる時…
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平成始まっての世紀のスクープ「昭和天皇独白録」なぜ31年前に公開されたのか?
さて、これまで戦間期の各国の指導者像を見つめてきた。このほか日本近現代史の折々の時代の実相を確認することで、日本社会の本質はどこにあるかを考えてきた。 ありていに言えば日本人は極めて直線的に…
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蒋介石の告示「怨みに報いる怨みをもってせず」に日本兵は涙した
蒋介石の性格や歴史上の位置について、断片的に語ってきた。歴史に幾つかの足跡を刻んだだけに特筆される資質を持っている人物であった。その資質は日本人の間で語り継がれる面も持っていた。 日中戦争に…
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ルーズベルトと蒋介石に隙間風が吹いたカイロ会談
蒋介石は中国にあって抗日戦争の指揮を執っていたため、外国に出るということがほとんどなかった。その彼が1943年11月に、ルーズベルトとチャーチルとの3者会談を呼びかけられ、エジプトのカイロに赴いた。…
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ルーズベルトからの電報に屈辱を感じ執務室で大泣きした蒋介石
蒋介石とアメリカ軍の関係が極めて悪化していたケースをさらに取り上げてみたい。 1944年の6月から7月にかけて、ルーズベルトはいささか腹の立つ日々を送っていた。アメリカ軍はヨーロッパ戦線でド…
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もし日本がアメリカに融和的な姿勢だったら歴史は変わったか?
蒋介石とチャーチルはハルノートに自分たちの意向を盛り込むことに成功したのだが、実は蒋介石は必ずしもアメリカ大統領のルーズベルトや国務長官のハルと良好な関係を維持していたわけではなかった。ルーズベルト…
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蒋介石の日本軍壊滅作戦は容赦のないものになった
蒋介石の人物論を検証していく時に、いくつか忘れていけない前提があるように思う。私は平成11年に蒋介石の評伝(文春新書)を書いた。その折に台北に何度か取材に行ったし、北京にも赴き、そこで発行されている…
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「ハルノート」はチャーチル、蒋介石の連携で強硬化した
蒋介石の人生には他にもいくつかの山があるように思う。あえてもう一点、挙げておこう。 昭和16(1941)年11月のアメリカと日本の外交交渉で、アメリカ側がハルノートを突きつけたが、その裏での…
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針のメドに糸を通すようなドラマ…中国の歴史を変えた蒋介石監禁の「西安事件」
蒋介石にとって人生の山のひとつは「西安事件」(1936年)であろう。この事件は単に蒋介石の人生を変えただけでなく、中国の歴史を変えたとも言いうるように思う。事件の様相は複雑であり、ジョン・ガンサーの…
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蒋介石の政治姿勢は三民主義の立場から共産主義者と見られた
蒋介石の人物評は戦後になって何冊かの評伝や人物論が刊行された。加えて蒋介石自身の日記や文書もかなり刊行されている。私自身も「蒋介石」という新書を刊行している(平成11年、文春新書)。そういう書は大体…
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戦間期の中国は米国の助けで国力を増した その中心にいたのが蒋介石だ
第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の戦間期は、いわば「戦争」がたばこを吸って一服していた状態と言っていい。この間に世界各国の指導者にはどういう人物がいたのか、彼らの戦いはいかなる形をとったのか、そう…
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チャーチルが23歳で書いた架空国家の「独裁」と「革命」の話
チャーチルの人生は多くの変化に富んでいた。貴族の家系に生まれ、感受性と冒険心に富む少年時代を過ごし、学校嫌いで成績はビリ。士官学校に入るのに3回も落ち、呆れた親が徹底して勉強させた結果、4回目にやっ…
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チャーチルはスターリンを疑いながらも連帯の挨拶を送っていた
チャーチルは首相に就任すると、保守党内閣としては極めて度量のある内閣を作った。労働党からも3人の閣僚を入閣させ、自身も国防相を兼ね、いわば挙国一致内閣を組閣したのである。これまで書いてきたように、チ…
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ドイツUボートの指揮官は人道的に行動した
第2次世界大戦に海軍大臣として、戦争指導に身を挺することになったチャーチルは、開戦時の演説(1939年9月3日)で、自由と権利を取り戻し、この恩恵を受けたことのない人々に分かち合える日が来ると信じて…
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チャーチルが気づいた二度の世界大戦の本質的な「違い」
チャーチルはヒトラーと融和政策を取ろうとしていたチェンバレン首相の政策をひとまず慰めたのである。我々の心の良心は平静であると言った後に、父祖に恥じない国民であることの証明をしなければならないとも言う…
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「言葉」を駆使した政治家・チャーチルの自信は英国民の励ましになった
戦間期の指導者論を確認しているわけだが、ルーズベルトの後はチャーチルを見ていきたい。チャーチルは第2次世界大戦の指導者として一貫してヒトラーと戦い、その姿勢は最後まで揺るがなかった。加えて生来の文筆…
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ルーズベルトとチャーチルの「友情」は米英の議会で追及された
ルーズベルトとチャーチルは、単にアメリカとイギリスの指導者という意味で親しいわけではなかった。遠い先祖をたどれば、メイフラワー号でアメリカに渡ったJ・クックという人物の流れをくんでいる。縁戚に連なる…
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ルーズベルトの不寛容な恐ろしさに日本人は気づかなかった
ルーズベルトが太平洋戦争の間、日本について論じる時は極めて露骨な表現を用いた。むろんドイツについても、極端な論で語った。「ドイツ人には今度こそ敗戦国ということをわからせる」と怒りの口調で語った。第1…
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東條英機が予期できなかったルーズベルトの「日本壊滅」
ルーズベルトは真珠湾攻撃を受けた日から、しばらく議会や国民向けの演説、記者会見などでも、「日本の計画的侵略にどれほどの時間がかかろうとも正義の力で全面的勝利まで戦い抜く」と繰り返した。全面的勝利とは…
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ルーズベルトは日本の無警告の攻撃を予測していた
ルーズベルトは心中で、イギリスの苦境を救う、あるいはフランスを含めての連合国の側に立ち、ドイツのナチズムとの戦いに加わるのは歴史的に必然と考えるようになっていた。そのため1941(昭和16)年に入る…