保阪正康 日本史縦横無尽
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ヒトラーとスターリン 独裁者には残虐な同一性が
ヒトラーとスターリンは、20世紀が生んだ特異な指導者である。彼らは表面上は国民によって選ばれた。 むろんソ連の社会主義体制は共産党の独裁だから、我々のいう選挙とは異なるのだが、ソ連の人民を代…
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ヒトラーの健康状態は常によくなかったが薬物依存で英雄になった
戦争の間、ヒトラーの健康状態は常にいい状態ではなかった。お付きの医師がいて、いつもヒトラーに薬を渡していた。この医師はベルリンの町医者であったが、ナチスの党員になることで大はやりするようになった。テ…
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「日本の文化は化石となり、麻痺する」とヒトラーは罵った
現実にヒトラーの時代に入ると、日本人は有色人種として差別の対象になっていた。父親がドイツ人で、母親が日本人という官僚がいた。この官僚は辞めさせられている。特派員だった鈴木東民の書いているところでは、…
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ヒトラーの書物「わが闘争」から削除された日本人への侮蔑感
昭和8(1933)年10月にベルリンである事件が起こった。ヒトラーが政権を獲得した年である。日本の少女がドイツの見知らぬ少年に殴られて顔に大ケガをした。事は大きな事件には思えない。しかし駐独大使の永…
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外交官だった東郷茂徳が見抜いたヒトラーの正体
ヒトラーが政権を握ったのは昭和8(1933)年である。日本社会では当初、その民族差別などが知られていて、極めて評判が悪かった。日本とドイツが防共協定を結んだのは昭和11年だが、それにイタリアが加わり…
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秩父宮殿下の戦争不拡大論はヒトラー嫌いも理由のひとつだった
秩父宮のヒトラーへの反論は、普通の日本の軍人ではおじけづいて口にできないであろう。秩父宮は天皇の弟として、言うべきことは言っておかなければとの思いがあったようだ。 この後、秩父宮は再びロンド…
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他国の指導者を罵倒するヒトラーを秩父宮殿下は鋭くいさめた
昭和10年代、日本の軍人、政治家、官僚の間では、ドイツに対する親近感が高まり、ヒトラーにより身近な意識を持つ者が多かった。ドイツと日本の間で防共協定が結ばれるのであったが、その同盟にイタリアが加わっ…
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ヒトラーはなぜ20世紀に登場したのか ドイツ国民は知性と理性より感情の言葉を求めた
なぜ20世紀にヒトラーが登場したのだろうか。なぜ、このような20世紀のモラルを全て否定するような指導者が生まれたのだろうか。私見を交えて、この男が歴史に登場した理由について考えてみよう。私はこれまで…
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ドイツ軍の相次ぐ敗戦…ドイツ人は米英などの復讐心に気づいて覚悟した
1943年に入ると、ドイツの戦闘能力は一気に落ちていった。理由はいくつかあるにせよ、スターリングラードでの敗戦によって、兵士の間で、そして兵士の家族も、これから「敵」陣営が本格的に反撃してくることを…
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暴力を肯定するためヒトラーの演説には多くの毒が盛り込まれた
ヒトラーの人間性について、彼に関する書を改めて読んでみると、奇妙な人間像が浮かんでくる。もののけに憑かれたような性格、自分が歴史的役割を担ってこの世に生まれてきたと信じる使命感、極端なまでの虚栄心の…
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第2次世界大戦が勃発したがすぐに戦闘は起きなかった
ヒトラーがポーランドに侵攻し、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して、いわゆる第2次世界大戦が始まった。すぐに撃ち合いが起きて戦火が拡大したかのように思われるのだが、現実は違う。戦闘は起きなかった…
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ヒトラーの演説に興奮する理由…それには「3つの特徴」が
ヒトラーが登場した1930年代は、ワイマール体制に不信を抱く右派の政党や団体が決して少なくなかった。そんな中、ナチス(国家社会主義)が力を持っていったのには、それなりの理由があった。「間違いなくヒト…
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ヒトラーのナチス党勃興に協力した女流映画監督の弁明と計算
ヒトラーは戦争末期には映画も見なかったし、映画それ自体にも興味を失っている。ニュース映画にさえも関心が薄れていったわけだが、このことは何を物語るのか。2つの指摘をしておこう。 ひとつは映画は…
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ヒトラーは実は小心者で一人の友人もいなかった
ヒトラーとニュース映画の話をもう少し続けたい。1941年、42年のドイツ軍の戦況がいい時は、ヒトラーはほとんど毎週のニュース映画に登場して国民を鼓舞した。得意の絶頂期に自らの弁舌の姿に酔っていたとい…
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ヒトラーは映画のナレーションを強い表現に変えていった
今日から何回かに分けて、ヒトラーの人物像を描いていく。戦間期をフルに利用して戦争を引き起こした張本人である。戦間期の善玉としてあえてチャーチルの名を挙げれば、悪玉の最たるものはヒトラーであろう。ヒト…
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ガンサーがヒトラーに見いだしたホラ、ヒステリー、嘘
戦間期の指導者として名が挙がるのは、やはりアドルフ・ヒトラーであろう。ジョン・ガンサーは1936年に「ヨーロッパの内幕」でヒトラーの人間像についてかなり詳しく書いた。その部分はのちにガンサーの人物論…
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東條英機はこれまでの政策を進めると大見えを切った
日米関係がこじれているにもかかわらず、首脳会談が一度も開かれなかったというのも、確かにおかしい。昭和16年(1941)8月に、一度は近衛首相とルーズベルト会談の案が持ち上がったが、結局は具体的な成果…
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「彼は伍長上がり、自分は陸軍中将」東條英機はヒトラーの真の怖さを知らなかった
戦間期の指導者を見ることで、それぞれの国が20世紀をどのような方向に進めようとしたのかがわかってくる。ジャーナリストの筆は、それを見抜いたか否かが問われることになる。むろんそれにはジャーナリストが自…
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20世紀前半の2つの世界大戦で日本が陥った「ねじれ」を解明する
第2次世界大戦を指導した軍人と政治家は結果的にというべきだが、いい意味でも悪い意味でも歴史的存在だったと言える。チャーチル、ルーズベルト、トルーマン、スターリン、そしてヒトラー、ムソリーニ、アジアで…
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「国民を救うために戦っている」デーニッツは演説で連合国の分断を図った
1945年5月1日にヒトラーが死亡したと、ドイツのラジオ放送が正式に認めた。さらに後任には海軍のデーニッツ元帥が就任し、現状のまま戦争は継続するとの方針も国民に伝えられた。ヒトラーの死は、ベルリンの…