保阪正康 日本史縦横無尽
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アメリカ国民が第2次世界大戦への参戦に及び腰だったワケ
1939(昭和14)年9月1日に第2次世界大戦が始まったが、この戦争にアメリカ国民は冷静かつ客観的に対応していた。この国がもう戦争に巻き込まれるのはごめんだ、というのが国民心理であった。翌年の大統領…
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英チャーチル首相と米ルーズベルト大統領は遠縁の親戚だった?
何度か引用することになるのだが、ジョン・ガンサーは第1次世界大戦、第2次世界大戦のいずれをも見つめたジャーナリストであった。それゆえに彼の著した名著(例えば「現代ヨーロッパの内幕」など)を引用するこ…
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児玉誉士夫はアヘン密売の実態を証言するよう、田中隆吉から脅しを受けた
戦間期の政治指導者論として、アメリカのルーズベルト大統領について触れてきた。ルーズベルトと近衛文麿首相の首脳会談のエピソードを紹介しているが、横道にそれたついでにもうひとつサイドストーリーを語ってお…
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児玉誉士夫が参謀本部にいた辻政信から依頼された「近衛文麿暗殺計画」
近衛・ルーズベルト会談は結局は失敗したのだが、この会談の背景に見え隠れしているアメリカ側の事情、日本側の事情についてあえて触れておこう。日米関係は歴史的には全く修復不可能の状態になっていたのである。…
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日米首脳会談、ルーズベルトは「無意味」と判断した
戦間期、日本の政治指導者は他国の政治責任者とただの一度も首脳会談を行ったことがなかった。各国はしばしば顔を突き合わせて懸案を話し合うことがあった。ヨーロッパの国々は地理的にも会見が可能であったが、日…
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勇気、忍耐など…ルーズベルトが有していた政治家としての「5つの資格」
フランクリン・D・ルーズベルトは、アメリカの32代大統領として戦間期のもっとも難しい時期を担った。大統領に就任したのは、図らずもヒトラーと同じ1933(昭和8)年である。以来、45年5月に亡くなるま…
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ムソリーニの死体は唾を吐きかけられ、逆さ吊りにされた
戦間期の独裁者は、鉄のような心と何事にも動じない強靱さを持つがごとくに語られてきた。レーニン、スターリン、そしてヒトラーらも当時はそのようにみられていた。歴史を変えるのはそのような人物なのだと、一般…
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イタリアはムソリーニを逮捕しヒトラーとの戦いに方向転換した
ムソリーニは、ヒトラーから強い連帯を受けて大きく変わった。歴史的に変節漢呼ばわりされるようになるのは、ヒトラーとの枢軸体制を企図してからだった。1936年にはローマとベルリンで中心軸をつくり、それを…
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ムソリーニは英仏とともに反ナチスの共同戦線を模索した
ムソリーニのヒトラー嫌いは1930年代にヒトラーが政治権力を握り、独裁体制を強める時期から徹底していった。逆にヒトラーをはじめナチスの側は、ムソリーニのファシズム体制を参考にしていて、その一党支配の…
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ムソリーニは必要以上に神話をつくり、国民に見抜かれて人気を失う
ムソリーニには真の友人はいなかったとの説がある。確かに多くの知己は持っていた。しかし心を許す友人、知人はいなかったというのだ。実弟のアルナルドだけを信用して、ローマに住むアルナルドにミラノからよく電…
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イタリア国王エマヌエーレ3世に衝撃を与えたムソリーニのローマ進軍
ムソリーニは雄弁家であった。イタリアでは政治家も演説の中に哲学的、文化的な一節や一句を挟むことが望まれた。特に歴史的な比喩などが喜ばれた。ムソリーニはそれだけの知性があった。イギリスの思想家、評論家…
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イタリアの独裁者ムソリーニは時代と人の心理を読む術に長けていた
イタリアの独裁者ベニト・ムソリーニは、同時期のスターリンやヒトラーとは少々性格の異なる人物であった。奇妙な表現になるのだが、陽気で夢想家の独裁者、暴力を肯定していくが、もともとは暴力礼賛者ではない。…
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ソ連は英米に裏切り者の引き渡しを要求した
ソ連軍は1944年10月に初めてドイツ領に入った。しかし戦車部隊が次々とドイツ領内に攻め込んだのは1945年1月であった。戦車部隊の中には、ロシア人やウクライナ人の収容所を発見して機銃掃射で攻撃をす…
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東方労働者を「裏切り者」「破壊分子」呼ばわりしたスターリン
東方労働者たちはドイツ社会では「ソ連からきた市民奴隷」と呼ばれたというのである。彼らは一様に軍事捕虜よりも過酷な運命に置かれた。ドイツ社会の労働者が前線に送られて戦っている、その埋め合わせのために労…
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ヒトラーによるスラブ民族虐殺で2600万人のソ連国民がナチスに殺された
スターリンとヒトラーの合作ともいうべき虐殺、粛清の悲劇がある。このことをまとめた報告書ともいうべき書がある。ロシアの歴史学者であるパーヴェル・マルコヴィッチ・ポリャーンの「二つの独裁の犠牲者(ヒトラ…
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いつまで人を殺すのかと聞かれたスターリンは「必要なかぎり、いつまでも殺す」と答えた
ジョン・ガンサーが「ヨーロッパの内幕」でスターリンに触れたのは1935年である。スターリンについての人物論を書いたこの時代はヨーロッパ全体でもまだ「リベラルな文筆家が寛大だった時期」だったと、戦後に…
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頭脳明晰なスターリンは新聞を隅々まで読み、記者の名を覚えた
スターリンの性格が粗暴であるか否かは、正確には判断の方法がない。無慈悲な粛清や政敵を殺害することが性格からきているならまさに異常である。しかしその半面で革命の大義のためなら何でもやってのけるというの…
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トロツキーはメキシコに亡命…なぜスターリンに暗殺されたのか?
レーニンは1922年5月に一度倒れている。脳梗塞であった。それでも一時的に体力を回復して政務に復帰している。この政務への復帰はスターリンの書記長解任を求めるためのものであった。しかし、レーニンの意気…
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レーニンが批判したスターリンの「粗暴」
スターリンの性格を語る時によく引用されるのが、レーニンが語ったという次の言葉である。「スターリンはあまりにも粗暴である。そしてこの欠点は、我々共産主義者の間やその付き合いにおいては十分許容できるもの…
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スターリンとヒトラー、2人の独裁者は互いを恐れながら憎んでいた
スターリンとヒトラーの関係を見るとき、やはり1939年8月の独ソ不可侵条約の締結と、それが破られての独ソ戦について考察しておかなければならない。戦間期を見る際に重要なのは国際社会での取り決めや約束事…