保阪正康 日本史縦横無尽
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アメリカ軍のサイパン上陸 日本軍との戦力比は1対43だった
アメリカ軍のサイパンへの上陸はそれまで太平洋の激戦地帯で戦った部隊が6カ月の休暇を終え、態勢を整えての作戦行動であった。日本軍の守備隊は第31軍隷下の第43師団、独立混成第47旅団、それに海軍の第5…
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米軍のサイパン島上陸 東條は「撃退」でごまかそうとした
日本の参謀本部の参謀たちは、サイパンは難攻不落であり、陣地を固めているのでアメリカ軍はむしろニューギニアやフィリピンのルートから攻めてくると信じていた。東條は参謀総長として海軍の軍令部に対し、「サイ…
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アメリカ軍の集中爆撃でサイパン島の防御陣地は潰された
インパール作戦が思うように進まない。それに輪をかけるようにさらに日本にとって不本意な結果が起こる。第2次世界大戦という枠組みで見るのなら、日本の同盟国であるドイツは、アメリカを中心とする連合国に次第…
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兵士の司令官への思い…「畳の上で死んだことが許せない」
インパール作戦に従軍した兵士たちはコヒマから、インパールからと、連合国軍の追撃を受けながら撤退していった。この作戦に従軍した兵士たちは京都の連隊の人が多かった。昭和50年代、そういう兵士たちを訪ねて…
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東條英機、牟田口廉也のせいで兵士7万2000人以上が死んだ
日本軍のコヒマへの進駐と占領はイギリス軍の軍事指導者たちを驚かせた。しかし彼らはすぐに反撃の体制を組んだ。すでに紹介したように、アメリカ軍とともに徹底した空輸作戦を行い、兵員、軍需品などを次々と送り…
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日本軍はインパールにたどり着きながら敵に包囲された
柳田元三の指揮する第33師団は駐屯地からインパールへ、山内正文師団長の第15師団、佐藤幸徳の指揮する第31師団もやはりインパール、コヒマに向けて入った。この作戦に参加した兵士たちの証言を何度か聞いた…
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インドに進撃しアッサム州の油田確保狙ったインパール作戦
3年8カ月の太平洋戦争を5段階に分けて、第4期が「解体」の時期だと私は考える。この期間が昭和19年2月ごろから翌20年4月までとなるのだが、いわば東條首相、陸相が参謀総長を兼ね、軍政と軍令の両面を握…
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大本営発表「撃沈」のウソとおかしさ 小学生も見抜いた
昭和18年から19年にかけて、「大本営発表」がどれほど嘘、偽りの報道を行おうと、日本が敗戦の道を歩んでいることは国民の誰もが理解できた。この第3期の崩壊の時代、ある国民学校の6年生の生徒が、大本営発…
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統帥権干犯こそが戦争指導の邪魔な刃だと東條英機は考えた
東條英機が首相兼陸相、そして新たに参謀総長を兼ねるのは、まさに独裁体制であった。一人の、さして軍内では有能とは言われてなく、凡庸たる軍人にこれだけの権力を与えることで、日本は戦争の行く末を懸けること…
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アメリカと日本には最低でも30対1以上の戦力差があった
太平洋戦争の第3期から第4期にかけての分かれ目を昭和19年2月ごろ、と私は考えている。昭和19年1月からはマーシャル諸島攻撃に始まり、すでに記したようにクェゼリン島は玉砕している(2月5日)。このク…
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江橋慎四郎述懐 学徒壮行会の答辞は交通事故のようなもの
私が江橋慎四郎に会ったのは2012年の夏だったように思う。湘南地方のある街に住んでいたのだが、年齢は90歳に達していた記憶がある。青年期からさまざまな運動で鍛えただけに、老いを感じさせない強健さが全…
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学徒出陣の悲劇 答辞を呼んだ東大生にまつわる不当な噂話
学徒出陣は悲劇として、戦後も語られてきた。その半面、出陣学徒を代表して答辞を読んだ東京帝大の学生には不当な噂が流された。確かに戦場で亡くなった学徒も多いのだから、誰かにその不満をぶつけたいとの心理も…
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出陣学徒壮行会 女子学生は「帰ってきて」と泣いて祈った
戦線は伸びる。戦死者は増える。当然なことに兵士の数は少なくなる。それを補うために考えられたのが、学生、生徒の徴兵猶予令の停止、あるいは女子勤労動員の促進であった。国民全てを兵力に組み込むというのであ…
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玉砕戦術に「毒ガスを使うべきでは」と米軍の参謀は言った
ギルバート諸島のマキン、タラワ両島の玉砕によって、アメリカ軍の攻撃はマーシャル諸島、そしてマリアナ諸島に向かってくることになったが、日本軍の玉砕という戦術がそのスピードを鈍らせたのも事実であった。特…
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軍中央の出たとこ勝負と面子のために兵士が玉砕させられた
この玉砕を大本営は国民の戦意高揚に利用しようとした。何から何まで異例の扱いであった。5月30日の大本営発表は、「5月29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮…
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アッツ島で戦死 33歳の軍医は妻と娘に別れの日記を書いた
太平洋戦争下で初めての玉砕となったアッツ島での戦いには、多くの悲惨なエピソードが残されている。それらのエピソードを整理したとき、私は涙が止まらなかった。 アッツ島での存命兵士やキスカ島からの…
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投降促すビラを無視し負傷者は自決…最後の突撃が行われた
アメリカ軍がアッツ島に上陸して18日目、5月29日である。この日まで6日間、激戦の日々であった。日本軍兵士の食料も武器弾薬ももう限界であった。日本軍の陣地は全て制圧されている。アメリカ軍に追い詰めら…
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わずか200人の日本兵陣地に5万発の銃弾が浴びせられた
アッツ島の守備隊2600人余の日本兵は、1万2000人余のアメリカ軍兵士を相手によく戦ったといえるだろう。戦闘はほぼ19日間にわたって続き、日本軍はいわば精も根も尽き果てた状態になった。食糧も弾薬も…
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アメリカ軍は1万2000人の兵力でアッツ島に上陸してきた
太平洋戦争の3年8カ月の間を戦闘の変化に合わせて区分すると、連合艦隊司令長官の山本五十六が亡くなってからおよそ9カ月後の昭和19年1月から2月ごろまでを、私は第3期の「崩壊」の時期というべきだと思う…
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山本は「い号作戦」成功と同時に外交交渉を行う方針だった
山本五十六の戦死は、単に海軍の軍事指導部のひとりが亡くなったのとは比重が違う。どういう意味か。 山本の死で戦争を、政治と戦闘の組み合わせで考えることができる指導者がいなくなってしまったのだ。…