昭和スター千一夜物語
-
勝新太郎(12)逃亡中の相手を電話で捕まえるとき、こちらから「もしもし」は絶対に禁物で…
勝新太郎さんは1990年1月16日、ホノルル国際空港で大麻とコカインの不法所持の現行犯で逮捕。現地での記者会見では「気が付いたらパンツに。もうパンツをはかない」と笑わせたが、摘発物の出どころは沈黙を…
-
勝新太郎(11)「奥村家」は依存症ファミリーの様相を呈していた
勝新太郎さんの「座頭市」は1974年からテレビ化され、取材する機会が多くなった。勝プロは港区六本木、麻布警察署の真裏にあるビルの3階にあった。インタビューに行くと、マネジャーは「今、静かに妄想中なの…
-
勝新太郎(10)「オレのドラマを観るんならテレビの近くに集まってくれ」
勝新太郎さんが主演、そして脚本と演出にも取り組んだ日本テレビ「警視-K」(1980年10月開始)の湘南ロケがあり、現地に駆け付けた。インタビューは勝さんの専用車(ステーションワゴン)内。当時、勝社長…
-
勝新太郎(9)16年ぶりに「座頭市」が復活するというニュースをつかんだが…
1988年の夏、映画「座頭市」が16年ぶりに復活するというニュースをつかんだ。低迷する勝プロは映画界では不人気だったが、バブル時代にダンスバーの経営で成功した「三倶」が製作費を出し、26本目の大作「…
-
勝新太郎(8)「オーナー、会社は大変なんだろ。もう、無理すんのはやめましょ」
黒沢明監督と衝突して「影武者」主役降板、制作も請け負った日本テレビ「警視-K」の早期打ち切り。その時点で勝新太郎さんの勝プロダクションは12億円以上の借財を抱え、倒産状態であった。それでも勝さんは親…
-
勝新太郎(7)「ビデオカメラは降ろすための格好の理由だったわけ。アイツは肝っ玉が小さすぎる」
勝新太郎さんが黒沢映画「影武者」を降ろされた理由は、勝さんが「リハーサル室に演技テスト用のビデオカメラを持ち込んだ」ことになっているが「実はもっと前から黒沢はオレを嫌っていた」と明かしている。 …
-
勝新太郎(6)世紀の「降板劇」模様を勝さんのワゴン車で直に詳しく聞いた。
「アイツの逃げ足の速いことったらなかった」 勝新太郎さんが“アイツ”と呼び捨てにした相手は世界の黒沢こと、黒沢明監督である。勝さんは黒沢監督が「デルス・ウザーラ」(1975年)以来、5年ぶりに…
-
勝新太郎(5)4本のブランデーを飲み切ったところで「さあ、何でも質問しろよ」と…
勝新太郎さんの取材はいつも刺激的でユーモアに富んでいる。勝さんの番記者だった先輩は「とことん付き合わないと、勝新太郎に好いてもらえない」と映画全盛時代の勝さんを回顧。京都太秦での撮影が終わるや、勝さ…
-
勝新太郎(4)「おっ、中野かい、オレと将棋をして、もし勝ったら話そう」
勝新太郎さんはギャンブル好きで大の負けず嫌い。勝さんの車に便乗すると「丸裸にされる」とぼやいていたのは1975年のフジテレビ「痛快! 河内山宗俊」で勝さんと共演したヒデとロザンナの出門英さん(90年…
-
勝新太郎(3)「玉緒との離婚を発表するからすぐ家に来てくれ」
勝新太郎さんは最盛期に入っていた。「座頭市」「兵隊やくざ」「悪名」と人気シリーズを確保。1967年には勝プロダクションを設立、勝さんの高額ギャラに加えて製作費も入ってきた。ところが中村玉緒と結婚して…
-
勝新太郎(2)「おい、脇ちゃん、寒くてかなわねぇ、俺と相撲をとろう」
やんちゃ坊主、破天荒、豪放磊落……。名優だった勝新太郎さんの代表作「座頭市」(1974年)がテレビに登場して半世紀がたった。ロケ現場で記者と相撲をとる勝さん、ふんどし一枚で離婚会見する勝さん、アヘン…
-
勝新太郎(1)「よし、オレも日本に帰ったら映画スターになってやろう」
勝新太郎さん(享年65)が俳優を目指すきっかけとなったのはハリウッド映画「エデンの東」(公開1955年)に出演中だったジェームス・ディーンとの出会いで、勝さんは「あれは強烈な印象だった」と述懐してい…
-
園まり(5)40年ぶりの復活コンサートで「3人娘」はやっとひとつになれた
「3人娘」の伊東ゆかりから「また、一緒にやろう」というファクスを何度も送られてきたが、園まりさんは「ポップスは苦手なの」と言って断ってきた。ところが2003年12月、テレビ東京「年忘れにっぽんの歌」か…
-
園まり(4)42歳で渡辺プロを退社しフリーに…芸能界から一時退いていた背景
園まりさんがソロ歌手として臨んだ「何も云わないで」はヒット。続く「逢いたくて逢いたくて」のレコードはさらに売れたが、本人は「どれも好きな歌ではなかった」のである。しかし皮肉なことに“囁く歌手”の人気…
-
園まり(3)“園まり節”はポリドール松村慶子ディレクターの巧みな指導で完成した
ミニスカから和装にヘンシンして日劇の「ウエスタンカーニバル」で「何も云わないで」を歌った園まりさんは青ざめた。会場から「まり、ひっこめ!」「帰れ! 帰れ!」と痛烈なヤジが炸裂、テープの芯が飛んできた…
-
園まり(2)中尾ミエ、伊東ゆかりと「スパーク3人娘」結成も…「実は私は穴埋めでした」
園まりさんは16歳の時、NET(現テレビ朝日)の歌手の登竜門番組「あなたをスターに」(1960年10月)に出場して優勝、父親の勧めで61年に渡辺プロダクションに入社。翌62年5月に「鍛冶屋のルンバ」…
-
園まり(1)「すみません、地震は大嫌いなんです。揺れると体が硬直して動けなくなるのです」
甘く囁くような歌唱で男性のハートをくすぐった園まりさんが7月26日に急性心不全で亡くなった。80歳。「何も云わないで」や「逢いたくて逢いたくて」の大ヒットで知られるまりさんは、中尾ミエ(78)と伊東…
-
吉永小百合(11)「自然に映画とともに年を重ねるだけ。私の子どもは映画たちです」
吉永小百合はデビューした10代からいきなりアイドルとして輝き、映画「青春の門」(1975年)で清純派脱皮、結婚4年後にはTBSの「海は甦える」(77年)で茶の間も席巻、映画「動乱」(80年)では高倉…
-
吉永小百合(10)「15歳年上のバツイチと、よく一緒になりましたね」
夜汽車の「特急とき」は東三条→上野。すいたグリーン車の真ん中で近藤久也プロデューサーは静かだった。小百合と私に付き合って駅前で飲んだ日本酒が効いて、爆睡状態である。窓際で向かい合って座った2人の会話…
-
吉永小百合(8)上野行きの夜汽車で大好きな女優と向かい合う…黄金の時間だった。
役場の人たちに見送られて吉永小百合、「海は甦える」の近藤久也プロデューサー、私の3人はタクシーで信越本線の東三条駅前まで戻った。梅雨はいっそう激しくなり、びしょ濡れの3人の衣服は、手で絞れるくらい雨…