昭和スター千一夜物語
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吉永小百合(8)「人気女優と二枚目テレビマン2人だけの旅行は危険。2人のクッションに記者を?」
吉永小百合はTBSテレビの3時間ドラマ「海は甦える」の収録に入る前にヒロインの故郷を訪ね、役作りに備えることになった。1977年6月、マネジャーの島田智子さんが「あす、新潟まで同行取材してください」…
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吉永小百合(7)「女優は与えられたお芝居の役になり切り、演じるだけ」
吉永小百合は1973年秋、15歳年上のフジテレビのディレクター、岡田太郎氏と、ひっそり結婚した。「晴れて」といいたいが、そうではなかった。娘の結婚に大反対だった両親とは大げんかの末、小百合は「吉永家…
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吉永小百合(6)「デスク、大変です。吉永小百合と岡田太郎ディレクターが結婚します」
「吉永小百合と岡田太郎氏結婚」は電撃的だった。岡田氏は現役のフジテレビの社員ディレクターだから、小百合との結婚情報はフジサンケイグループに漏れても不思議はない。最初に特ダネを入手したのは系列のサンケイ…
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吉永小百合(5)両親の反対で渡哲也と破局。小百合は失語症に…
吉永小百合と浜田光夫のコンビでヒットした映画「愛と死をみつめて」の第2弾として1966年に「愛と死の記録」が用意された。ところが浜田が目を負傷したため、急きょ、渡哲也が代役に選ばれた。小百合には10…
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吉永小百合(4)多忙で激しい青春を送りながら、恋に目覚め、恋に落ちる、普通の女性でもあった。
吉永小百合は1967年に「吉永事務所」を設立して独立。2年後の69年に早大を次席で卒業し、日活とは「年間2本の作品に出演することを条件に、了解を得れば他社の作品に出演でき、自主製作映画もできる」とい…
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吉永小百合(3)タモリは「吉永の食べ残しを食べようか迷ったが思いとどまった」
吉永小百合は、楚々とした「お嬢さま」のイメージだが、小学校のころは「お米を買う余裕もない時期もあった」ほど貧しい暮らしを体験している。父親の吉永芳之は東大法学部卒後、外務省を経て事業を興すが失敗。借…
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吉永小百合(2)スターに悲劇が加わると、さらに人気は上昇するのが芸能界である
「文武両道」吉永小百合は芸事に秀でていて、聡明な女優である。そんなスターに悲劇が加わると、さらに人気は上昇するのが芸能界である。1962年の「キューポラのある街」で弾みがつき、続く主演作「赤い蕾と白い…
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吉永小百合(1)私が“隠れサユリスト”になった瞬間
団塊~70歳代の人で吉永小百合(79)の熱烈ファンを「サユリスト」と呼ぶ。今も美しく、今年は女優デビュー65周年を記念して「吉永小百合青春時代写真集」を発表。サユリストは小百合の可憐、熟成、壮年のス…
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ちあきなおみ(6)一瞬、驚いたように立ち止まったが、無言で歩き去った。
ちあきなおみ・郷鍈治夫妻は麻布で喫茶店を経営。そこは、2人の音楽仲間、俳優友達が集まる“憩い”の場所だった。カウンターに入り、コーヒーをひいたり料理を作ることもあり、彼女がもっとも「普通の主婦」を過…
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ちあきなおみ(5)義兄の宍戸錠さんは「ちあきにかなう歌手はいない」とベタ褒めだった
ちあきなおみさんはポップス系の歌が多かったが、「船村徹演歌なら挑戦してみたい」と、1975年7月に「さだめ川」(詞・石本美由紀)を出し、76年10月には「酒場川」とB面「矢切の渡し」を発表、船村・石…
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ちあきなおみ(4)大麻で逮捕されたポール・マッカートニーが移送された先は…
「喝采」旋風の翌1973年のはじめ、再び内幸町のNHKの楽屋で会った。ちょうど「喝采」の次の企画に入っていたころで、人生最大の多忙な年末を乗り切って、一段落していた。公私が重なったといわれた悲恋曲「喝…
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ちあきなおみ(3)艶っぽい第一印象とは裏腹に、根は「母性」にあふれた女性に映った。
ちあきなおみさんが自分の唇について「赤ん坊を食べてきた唇」と表現して私はびっくり。おばあちゃん子だった、ちあきさんは「日本昔話や童謡、怖い話をたくさん話してもらった」そうで、唇の話は「鬼子母神」伝説…
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ちあきなおみ(2)「人からよく“たった今、赤ん坊を食べてきたばかりの唇”って言われるわ」
NHKの局舎は1973年7月3日、現在の渋谷区神南に引っ越すが、それまでは内幸町にあった。私が在籍したクラブ「東京ラジオ・テレビ記者会」も館内にあり、71年6月、NHKの出演者控室で、ちあきさんを待…
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ちあきなおみ(1)芸能記者になって初めてインタビューした人だった
銀幕を去って32年、“昭和の歌姫”ちあきなおみさんが喜寿を迎える。デビューして半世紀がたつ今日でも「四つのお願い」「喝采」「紅い花」など彼女のヒット曲はカラオケで歌い継がれ、CDアルバムも出せば売れ…
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後藤久美子(8)3児の母となり、50歳になった今もゴクミはお美しい
後藤久美子、ゴクミは18歳で恋をして、21歳で婚約、22歳で結婚(事実婚)そして3児の母となり、今もお美しい50歳である。還暦(1964年生まれ)の夫のジャン・アレジは資産400億円の富豪で住まいは…
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後藤久美子(7)「アレジに小麦色のエキゾチックな恋人ができたらしい」
友人のジョージ・ヤハタやAP通信員のエディの協力、現地の日系パウリスタ新聞の記者たちの援護で、後藤久美子&ジャン・アレジのロマンス取材は成功。アレジとともに「ブラジルGP」を戦って8位に入った鈴木亜…
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後藤久美子(6)深夜3時、やっとゴクミとアレジの記事は地球の裏側に届いた
後藤久美子がサンパウロ市でジャン・アレジとの関係を説明した1995年3月27日午後の会見後、写真のAP電送依頼、記事の執筆、送稿という作業が待っていた。私は24日に現地入り、AP通信員のエデーに「ア…
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後藤久美子(5)アレジとの“恋のキューピッド”はジャッキー・チェンだった
ブラジルGPが終わった翌(1995年3月)27日午後、後藤久美子はサンパウロ市内のレストランで記者会見を行った。ご当地でジャン・アレジとの熱愛が発覚したため、会場は日本の現地特派員や通信員、日本のテ…
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後藤久美子(4)アレジのマシンを追いながら快調だった「無限ホンダ」鈴木亜久里も撮影
1995年3月26日、「F1ブラジルGP決勝」はインテルラゴス・サーキットで開催された。前日の最終予選を観戦した同じ席に着き、三脚に400ミリレンズを装着してカメラをセット。アレジのマシンを追いなが…
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後藤久美子(3)「彼も同じ写真を欲しがっている」電話の主はライバル紙のK記者だった
AP通信社の通信員エデー・カメラマンは後藤久美子とジャン・アレジのロマンス情報を得ていて、2人が1995年3月中旬に現地に入るとフォーカスをかけていた。ガイド役のジョージは「エデーは友人で、2人の写…