喜怒哀楽のサラリーマン時代
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谷川真理さん<5>資生堂に誘われ入社、プロのランナーに
皇居ランナーを見て走り始めてから、リース会社を退社するまでは1年半ほどでした。各地のマラソンで走り始めたときにラン仲間から、「社名をつけてマラソンを走ってほしい」という会社を紹介してもらって、転職す…
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谷川真理さん<4>宣言通り都民マラソンで優勝しシドニーへ
4月から昼休みに1時間、皇居の周りを走り始めたのですが、7月くらいになると、いつも走っている男性ランナーに、「都民マラソン(東京マラソンの前身)というのがあるから走ってみたら?」と声をかけられたんで…
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谷川真理さん<3>昼休みに皇居ランナーを見て「私も!」
リース会社で働いていたのは4年半ほどでした。普通のOLだった私がマラソンを走るようになったのは、4年目の春、昼休みに後輩たちと外でお弁当を食べることになって、そのときたまたま皇居の周りを走っているラ…
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谷川真理さん<2>いかに会社から脱出するかを考えていた
新卒で入った「イースタンリース」での仕事は、モービル石油系列のガソリンスタンドのガソリン計量機や洗車機などのリース契約に関する事務処理が中心でした。月額のリース料を計算したり、契約書を作成したりとい…
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谷川真理さん<1>ツアコンになりたくて高卒後は専門学校へ
1991年東京国際女子マラソン、94年パリマラソンでの優勝など、華々しい成績を残してきた。現在も現役のマラソンランナーとして、多くの人に走る楽しさを広めているが、マラソンを始めたきっかけはOL時代の…
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平田静子さん<5>福田和子とは出所後に温泉旅行の約束をした
「アメリカンインディアンの教え」で80万部のヒットを飛ばすなど、凄腕の編集者となった平田さんは、女性向け情報誌「CAZ」の編集長を経て、雑誌部長、そして書籍部長と昇格していった。 「OLのときか…
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平田静子さん<4>「もう誰も愛さない」の原作本が大ヒット
フジテレビに入社して15年目の35歳のときに、扶桑社へ出向の辞令が出た。 「前身のリビングマガジンが倒産し、当時のフジテレビ副社長だった鹿内春雄さんが“1年間、この会社に行って立て直す”と、扶…
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平田静子さん<3>補佐でも人に喜んでもらえることが力に
第2子出産後に職場復帰すると、今度は「グループ会議事務局」に配属された。比較的時間に余裕のある部署だと思っていたが、着任直後にグループの中枢セクションとなり、予想外に忙しくなったという。 「グ…
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平田静子さん<2>24歳で妊娠し出産後の復職を宣言
テレビの制作現場に携わることに憧れていたが、配属されたのは総務部文書課。テレビ局らしさをみじんも感じられない業務を任された。 「社内に設置されていた公衆電話の売り上げを回収して経理に持っていっ…
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平田静子さん<1>「チーズはどこへ消えた?」の2つの戦略
1969年に明治大学短期大学を卒業し、フジテレビに入社。普通の“お茶くみOL”をしていた平田静子さん(69)は、出向先で出版プロデューサーに転身するとヒットを連発。「チーズはどこへ消えた?」は累計4…
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しりあがり寿さん<5>“一番搾り”開発チームに呼ばれて
1985年に単行本を出した当時、しりあがりさんは朝霞に住んでいた。東武東上線で池袋までは漫画のことを考え、国鉄に乗り換えると仕事のことを考える――そんな日々だったと振り返る。 「平成元年だから…
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しりあがり寿さん<4>「ハートランド」の開発チームに抜擢
1985年の夏、結婚したその年に、しりあがりさんは漫画家としてデビューする。最初の単行本、「エレキな春」(白泉社)を出版したのだ。 「入社5年目のときです。会社には就業規則があり、バイトしちゃ…
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しりあがり寿さん<3>飲むことに前向きな先輩が多かった
「ビール会社だけあって社員は、まず酒に強かった。ビールグラスがちょっと空くと、すぐ注がれる。空間が2センチもできたら目いっぱい注がれる。社内の飲み会は、その繰り返し。ハハハ、本当ですよ。“酒に強い”と…
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しりあがり寿さん<2>初任給12万8000円「大金持ちの気分」
キリンビール入社1年目。最初の配属先はマーケティング部だった。 「仕事は最初から面白かった。というか、研修が1カ月くらいあって、そこからして楽しかった。荒川の近くに東京工場というちっちゃな工場…
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しりあがり寿さん<1>就職活動はキリンビール1社だけだった
漫画家のしりあがり寿さんは、元キリンビールの社員。多摩美術大学でグラフィックデザインを専攻し、入社後は商品開発や宣伝を担当するマーケティング部に配属になった。1980年代半ばのハートランドビールや、…
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大隅潔さん<5>ジャンボ尾崎の機嫌を直した宮沢りえの一言
大隅さんは、43歳でゴルフ担当に変わる。時はバブル景気、そして尾崎将司の絶頂期だった。 「当時のジャンボってのはすごい人気でね。まさしくジャンボの時代でした。1992年1月1日付のスポニチ1面…
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大隅潔さん<4>大場政夫の死は記者生活で一番悲しい日
当時の相撲記者は二毛作だった。 「午前中は国技館へ行き、午後6時が打ち出し。原稿が終わるのが、早ければ7時。それから後楽園ホールへボクシングの取材へ駆けつけるのですが、メインイベントは午後8時…
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大隅潔さん<3>大鵬さんに「一緒に風呂に入ろう」と誘われ
「スポニチの記者さん、大将が一緒に風呂に入ろうと言ってます」 相撲記者時代、大隅さんは取材先の二所ノ関部屋で付け人の若手力士にこう声をかけられた。 「大将とは、大鵬さんの呼び名です。風呂…
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大隅潔さん<2>麻雀三昧が「相撲記者として大いに生きた」
東京オリンピック出場後、大隅さんは文芸評論家の大井廣介氏の口添えもあって、スポーツニッポン新聞社東京本社の入社試験を受けることになった。 「地元の浜松に戻って就職しようと思っていましたが、水泳…
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大隅潔さん<1>東京五輪候補生としてで明治大学に入学
日馬富士の暴行事件の一件以降、最近は土俵の女人禁制騒動もあって、テレビでこの人の顔を見ない日はない。元スポーツニッポン新聞社の記者で、現在は東京相撲記者クラブ会友として活躍する大隅潔さんだ。 …