保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(58)オモテから消えた「大東亜戦争」
ここであえて付け加えておくのだが太平洋戦争に関してウラとオモテの関係が逆転したのは敗戦の年の12月8日からである。GHQ(連合国軍総司令部)の命令により、この日の各新聞は「太平洋戦争史」という連載記…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(57)告げ口社会が生んだ「国民は無色」
戦時下で、ウラの言論とオモテの言論の違いを明確にするのが特高警察の逮捕状況を記録した文書である。これによると「平和」とか「自由」、さらには「戦争反対」などの語を用いた会話を交わすと、流言飛語の罪や戦…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(56)軍事権力者の暴力、思い込み、愚かさ
戦時用語の「国民は無色である」を詳細に分析していくと、軍事の権力者は、国民は無知な存在だと思い込むことで、自分たちの優位性を確保しようとしていたに過ぎないと思っていたことがわかる。情報も知識も与えず…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(55)同盟通信・森元治郎が書いた命がけの記事
ここで敗戦前後のある新聞記者の動きを紹介しておこう。この新聞記者・森元治郎から、その思い出話を取材したのは平成に入って間もない頃で、彼が顧問を務めていた国際協力事業団の一室においてであった。80代半…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(54)日本に降伏を促した「ザカライアス放送」
日本側とアメリカ側の相互の宣伝放送は、戦争末期になるとかなり様相が異なってきた。特に昭和20(1945)年6月に日本側は、本土決戦に備えて軍人のほとんどはこうした放送から離れて、その準備へと配属にな…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(53)ラジオ放送で続々と伝えられた日本軍の敗北
日本とアメリカの謀略放送に携わるスタッフの間で、どういう形であれ、コミュニケーションが成立していたというのである。むろん当初は戦争の当事国としての敵対感情で、互いに非難の応酬であったことは間違いない…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(52)日米謀略放送は「音の戦争」だった
「大本営発表」については、この連載でも極めていい加減であったという指摘は大まかにしてきた。虚偽や誇張の代名詞であったという指摘である。今回、戦時用語の「国民は無色」という視点から、この戦況報告を分析し…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(51)大本営発表は果たして国民を騙しえたのか
戦時下で国民が最も愚弄された例は、戦果を報告する「大本営発表」である。この発表についての詳細な当事者による総括はなされていない。私は、この発表が戦時下に何回行われ、どのような内容であったかについて基…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(50)東條英機が戦時下で豪語した「国民無色」論
本土決戦(九州、関東)の構想を見ていくと、軍事指導者の戦争論がどのようなものであったのかが、全く不明である。その目的も何のためか、が曖昧である。私はこのことについて、近代日本の歴史的欠陥を感じるのだ…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(49)「本土決戦」が戦争継続の道へと走らせたのだった
戦時用語としての「本土決戦」という語を通してうかがえるさまざまな光景を見てきた。今年は「昭和100年」という節目の年でもあり、本土決戦という語には、当事者の意思を超えた史実がまだいくつも伏せられてい…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(48)旧ソ連大使館員の背後にちらつく日本政府の影
私は、この件について軍人や外交官などからも聞いて歩いた。昭和の終わり頃である。すでに40年以上も経っていて、しかもさまざまな資料にも残っていないだけに、全ては事実として確認はできない。旧ソ連にせよ、…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(47)ソ連大使館員はなぜ、広島に行けたのか
8月6日の広島への原子爆弾のあと、駐日ソ連大使館の館員2人が広島に赴いた史実について、もう少し話を進めよう。ここには重大な意味が隠されているようなのだが、いまだ十分に調べられているとは思えないからだ…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(46)新型爆弾投下後、旧ソ連大使館員2人が広島に向かった
1945年7月から8月にかけて、原爆開発・製造の歴史上の史実を点検していくと、私たちには知らされていない事実がいくつかあることに気がつく。そのうちの2つを、私の取材体験から語っておきたい。前回はその…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(45)旧ソ連の諜報部員は「マンハッタン計画」をつかんでいた
スターリンの内心は、いかなるものであったか、それを私(保阪)は1990年代初めに知らされた。スターリンは、好悪の感情は別にして、ソ連の国家としての運命を救ったのは事実であろう。むろん民主的に、あるい…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(44)アメリカは原子爆弾をどこに落とそうとしたのか
原子爆弾の投下地をどこにするか--アメリカ軍事機構の指導者がその候補地を探している1945年7月のことだ。実際に無警告で投下すると決めてからは全ての歯車が動き始めたのである。当初は日本への無差別攻撃…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(43)日本の本土決戦派と米国政府の類似点
1945年4月12日に、ルーズベルトは急死した。あとを継いだのは副大統領のハリー・トルーマンであった。トルーマンには対ドイツへの戦略、そして対日戦の本州への上陸など、次々に知らされていった。実際に副…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(42)日本本土上陸を計画した幻の「ダウンフォール作戦」
実はアメリカ軍は、ドイツ降伏後に九州、関東など日本本土への上陸作戦の検討に入った。すでに計画案はできていて、それは「ダウンフォール作戦」と呼ばれた。日本を全面降伏させるという案であった。この作戦は2…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(41)本土決戦は実際に行われていたのだ
戦時用語としての「本土決戦」という語を分析して解説を記しているわけだが、ここでさらにこの語に伴う史実を紹介していくことにしたい。その前に、本土決戦は実際に行われていたのだが、私たちはそのことにいささ…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(40)軍事指導者が持っていた独特の戦争観
本土決戦という語をさまざまに分解して見ていくと、図らずも私たちの国の奇妙な発想が浮かび上がってくる。このシリーズではその浮かび上がってくる国民性や国家観の構図を考えてみたい。あえてまず2つの歪みを語…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(39)亡国の輩が呼号した「本土決戦」のまやかし
戦時用語の6番目は「本土決戦」である。この語に潜んでいるさまざまな意味を、私たちは読み取る必要がある。昭和20(1945)年8月の段階で、本土決戦を呼号していた軍事指導者は、実は「愛国者」のふりをし…