保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「日本軍兵士たちの戦場体験」(6)アメリカは日本兵の戸籍偽造用に2つの県を選んだ
ガダルカナルで生き残った一木支隊の兵士たちがつくっている戦友会の話をさらに続けていく。この戦友会は北海道の旭川にあり、会長は大友さんであった。昭和の終わり頃の戦友会を開こうとしていた時で、開催の案内…
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シリーズ「日本軍兵士たちの戦場体験」(5)アメリカに新しい戸籍と名前をもらって戦後を生きた日本兵の哀しみ
戦友会の会員たちから長期にわたって話を聞いてきたのだが、そういう中からさらに帝国軍隊の歪んだ姿をまずは語り続けたい。日本の軍事機構は単に歪んでいるだけではなく、非人間的な側面を持っていた。そのことは…
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シリーズ「日本軍兵士たちの戦場体験」(4)「軍隊では話して聴かせるより、暴力でわからせる方がいいんだ」と元高級将校は話した
前号からの続きとなるのだが、ある戦友会でのAの怒りは戦後になっても決して消えていなかった。 軍隊時代に上等兵に凄まじい暴力を受けた下級兵士は、戦後社会で教師という仕事に就きながらも、思い出せ…
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シリーズ「日本軍兵士たちの戦場体験」(3)戦友会という組織は複雑な意味合いを持って成り立っていた
実は一口で戦友会と言っても、かつての兵士仲間が戦争の時代を懐かしがって、年に1回でも集まって往時の思い出話をする同期会のようなタイプもあれば、前述のように戦場体験のフラッシュバックに悩まされる心理的…
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シリーズ「日本軍兵士たちの戦場体験」(2)「幼稚園のそばに住めずに引っ越した」と漏らす元日本兵もいた
ある戦友会の集まりについて、話を進める。戦友会にはさまざまなタイプ、意味合いがあったのだが、昭和50年代、この戦友会はあるタイプを代表していたのである。 食事のお膳が運ばれてきて、戦友会の会…
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シリーズ「日本軍兵士たちの戦場体験」(1)兵士たちは密室の中で互いに心を慰め合っていた
戦後80年、太平洋戦争はすでに歴史上の出来事である。現在の日本社会では、戦場体験を持つ者はほとんどいない。考えてもわかるが、敗戦時に20歳の兵士(実際には極端に少ないのだが)とて現在は100歳になっ…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(80)私たちは戦時用語と非戦時用語の差異を理解する必要がある
戦時に用いられる用語について、これまでに検証しながらあの太平洋戦争を俯瞰してきた。意外なことに気が付かされたのではないだろうか。日本語は割合、その性格が明確であり、戦時用語は平時の時にはほとんど使わ…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(79)天皇免責の証言よりも重かった東條英機の「プライド」とは
東條英機は、日頃から天皇に忠実な臣下の代表者として自負していた。自らが首相、陸相などいくつものポストを抱えて戦争指導を行ったのは、余人に天皇への面談を拒否する意味もあった。その東條が、敗戦後に「天皇…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(78)「天皇を免責するためには、あなたの証言が重要である。自殺はしないように」(下村定陸相)
銃声に対してMPの兵士たちも銃を乱射した。玄関の扉が壊され、兵士たちは東條家の応接間に入り込んだ。そこに映ったのは、応接間のソファに座り、首を垂れている東條英機の姿であった。日本人記者がすばやく部屋…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(77)東條英機は戦陣訓をつゆとも意識せずに自決を図った
戦陣訓は兵士には死を要求するが、自らは死を貫徹しない。実は戦陣訓は残酷な現実を教え込んでいる。そのことについても触れなければならない。 繰り返しにもなるのだが、私の戦陣訓の疑問の3点の第1は…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(76)法規よりも東條陸相の示達が優先しようとした傲慢さ
戦陣訓が形を作っていくプロセスの中に凝縮されている特徴とは何か。すぐにお分かりのことと思われるのだが、昭和10年代の軍事機構は全くの官僚組織になっていたと言っても良いであろう。省部の要職を占める軍官…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(75)東條英機の「戦陣訓」作成に協力したという徳富蘇峰、島崎藤村
「戦陣訓」の作成プロセスをみると、長期化する日中戦争における日本軍内部の士気の低下や戦場での規律違反、ひいては捕虜になることへの抵抗がなくなっているかのような状態に対して、軍事機構の指導者層には次第に…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(74)ジュネーブ条約の精神に相反する「戦陣訓」を発した東條英機の反天皇性
「戦陣訓」は、天皇の大権に抗する不穏な文書ではないか、というのが私の理解である。どういう点が、そしていかなる形の不穏さを抱えているのかを具体的に考えてみる必要がある。一陸軍大臣が兵士に向かって、戦場で…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(73)「捕虜になるな」「勝つまで戦え」は越権行為ではなかったか
「生きて虜囚の辱を受けず」は、実は陸海軍の大元帥であり、いわば統帥権の総攬者である天皇に対する背反行為であり、許されざる憲法違反ではないのか、という視点での論述はむろん私もほとんど目にしたことはない。…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(72)「生きて虜囚の辱を受けず」の罪深さ
改めて「戦陣訓」を読んでみよう。天皇の大権を侵しているのではと思いたくもなる一節とはどういうところなのか。検証してみる必要がある。 まず「本訓其の一」は、皇国となっていて、これも導入部は引用…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(71)皇国、皇道、皇軍の語が乱舞した「戦陣訓」
「戦陣訓」は、ある意味で「軍人勅諭」を意識しているし、示達者の東條には昭和の軍人勅諭の気負いがあったのかもしれない。戦陣訓の「序」は明らかに勅諭を意識しての記述である。そこには次のようにある。 …
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(70)東條英機はなぜ「戦陣訓」を示達したのか
ここで重要なことを指摘しておかなければならないのだが、明治15(1882)年1月に明治天皇の名によって発せられた「軍人勅諭」と昭和16(1941)年1月に陸軍大臣東條英機によって示達された「戦陣訓」…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(69)皇国史観の軍事指導者は軍人勅諭すら否定した
陸軍では新兵には必ず「軍人勅諭」を暗記させ、それを復唱できることが兵士の条件とされた。2700字に及ぶこの勅諭は、確かにあるリズムを持っていて、兵士たちに「皇国の神兵」としての使命感を要求している。…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(68)軍事指導者と連携した右翼言論人たち
昭和初年代の政党政治が確固としたシステムと内容を作り上げていたならば、軍事機構に付け入る隙を与えなかったであろう。ところが議会では与野党の対立がまるで児戯のようなありさまを演じたり、金解禁を巡って百…
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シリーズ「昭和の亡霊・7つの戦時用語」(67)満州事変後に「皇国」はなぜ流布されていったのか
しかし実際には、日露戦争時の「皇国の興廃」という表現はそれほど使われることはなかった。明治30年代の戦争では、そこまで神がかりの戦争ではなかったのである。「皇国」という語よりも、むしろ「帝国」という…