保阪正康 日本史縦横無尽
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「人間宣言」は「五箇条の御誓文」を冒頭に置いた
昭和21(1946)年1月1日、天皇はいわゆる「人間宣言」を発した。正確には「新日本建設に関する詔書」というのだが、その骨格は「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単な…
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天皇とマッカーサーの「黙契」
あえて触れておくが、天皇とマッカーサーの会見は11回行われているが、そこで何が話し合われたかは具体的にはわかっていない。通訳は都合3人であったが、奥村勝蔵、寺崎英成、松井明のいずれも、限定された枠内…
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2人は会見を重ねるうちに戦後日本への共通理解を得た
昭和天皇とマッカーサーの会見は、現代史の出発点のセレモニー(儀式)だったということになるだろう。さまざまな形でこの会見は語られているのだが、本質的には敗戦国の君主が戦勝国の指導者に儀礼的な挨拶、戦争…
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天皇・マッカーサー会見に影響を与えていた東京裁判
奥村勝蔵の立場が極めて微妙だったというのは、東京裁判の進み具合によってというべきであった。東京裁判は、昭和22(1947)年2月にひとまず検察側の訴因55に対する立証を終えたのだが、それ以後、被告た…
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真珠湾攻撃だまし討ちの原因とされた奥村勝蔵
第4回の天皇とマッカーサーの会見は、昭和22(1947)年5月6日である。第2回、第3回の通訳は、やはり外交官だった寺崎英成である。第5回も寺崎であった。第6回以降は松井明が主に担当したといわれてい…
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天皇は「責任」という語を持つ必要はなかった
私の分析が誤解か否かは歴史的に断を下すほどの史料はない。だが昭和天皇の発言を丹念に追いかけるとわかるのだが、決して用いない表現があることに気がつく。その一つが「責任」という語である。それゆえの分析な…
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天皇は戦争の全責任を負うと本当に語ったのか
マッカーサーの回想記と外務省、宮内庁の第1回の会見録との間にある重要な差異について、検討を加えることは天皇の戦争責任を考える上でも極めて重要である。そこで奥村勝蔵の残した記録について、私なりの分析を…
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天皇・マッカーサー会見の真相を追う
では天皇とマッカーサーの会見の内容はどのようなものだったのか。この内容について、平成14(2002)年までは日本政府も公式には発表していない。ところが2001年の真珠湾攻撃から60年目の年に、幾つか…
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米国大使館に自ら訪問した天皇の姿が国民に与えた衝撃
マッカーサーが東京に着任してから、天皇とはいつ会うのか、それはマッカーサーが天皇を呼び出すのか、それとも天皇の側から訪問を打診するのか、あるいはマッカーサーは会わずに戦争犯罪裁判の被告に指定するのか…
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現在の立ち位置を確認する上で必要なのは「自責の念」
今年(2024年)は、昭和が誕生してから99年である。その昭和が終わってからは、35年である。昭和は〈昭和20(1945)年〉を挟んでそれまでを近代史、そしてそれ以降を現代史がスタートしたという分け…
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マッカーサーが急がせた「人権指令」
東久邇宮内閣の辞表提出は、極めて正直であった。連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官であるマッカーサーから、日本民主化の具体的方針が相次いで示された。その基本方針は、これまでの日本軍国主義の解体、次い…
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投書に著名人ブレーン、新時代を目指した東久邇宮内閣
東久邇宮首相は、国民に向けてラジオで、自らの所信を明らかにすると言って、「大詔に御示し遊ばされた陛下の思召を奉戴し、一糸乱れざる足並みを以て、難局の打開に進む」という一節を声高に述べた。天皇制国家を…
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終戦直後に皇族内閣が誕生した理由
占領期間の現代史を俯瞰するとき、GHQ(連合国軍総司令部)の総司令官マッカーサーについては、まだまだこれからも触れていく。ここでその占領政策に対応する日本側の政治機構はどう対応したのか、その史実を多…
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マッカーサーに告げ口し媚びた日本人の投書
マッカーサー宛ての書簡に共通しているのは、戦争を進めた軍事政権への怒り、政府が戦争の実態を国民に知らせていないこと、さらに自らの周囲にいる要領の良い人を名指しで告げ口していることなどである。中には、…
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日本国民はマッカーサーを新しい指導者としてあがめたのだった
日本近代史の終焉は、昭和20(1945)年8月15日である。むろんこの日は軍事的に敗北を認めたわけだが、政治的には9月2日の東京湾に停泊するミズーリ号上での降伏文書への調印である。日本はGHQ(連合…
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江戸鎖国時代は270年、日本近代史はまだ156年
今、歴史上の時代区分として日本近代史が昭和20(1945)年8月15日に終わり、それ以降から現在までをさしあたり日本現代史と称する見方が一般的だ。明治元年以降を日本近現代史と評する言い方もある。いず…
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近代史における軍人教育の最大の欠陥
清瀬一郎の意図はどこにあったのだろうか。私は東條英機が書き残した手記に触れて、すぐに幾つかの理解にたどり着いた。むろん推測交じりの分析になるのだが、まず清瀬は、東京裁判では敗戦の段階で、東條はクーデ…
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戦争を始めた指導者によって戦争は終わらない
二重構造の影の部分、つまり反乱の青年将校は現役の指導部の反対で、クーデター計画が頓挫した場合、影の部分を表に出す意図があったのだろう。それがもうひとつの大掛かりな計画であったように思える。しかしこれ…
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二重性を持っていたクーデター計画
昭和天皇は、東條英機を信用しなくなったことを直接口にしていない。その理由は、戦後すぐに側近たちに語りおろした「昭和天皇独白録」を読むとある程度うかがえる。天皇は、東條がいくつものポストを抱えて、そし…
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天皇を巧みに利用してきた東條英機
重臣として、天皇に意見を述べた時の東條英機の発言内容は、すでに聖慮が明らかになった以上、私は意見を控えると言いながら、その実、現状でこの宣言を受け入れることには反対の内容を伝えている(8月10日)。…