保阪正康 日本史縦横無尽
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北海道開拓の二重性 米国依存とアイヌ民族への露骨な植民地政策
屯田兵政策は明治政府の国内開発の一手段だが、一面で歴史的には多くの課題や懸案の事項を抱えていた。屯田兵制は明治8年から始まり、明治32年に終わった。そこで、この25年間の近代日本史との関わりについて…
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「薩摩憎し」で西郷軍を追い詰めた屯田兵たちの普通の生活
こうして入植した屯田兵は、細かく決められた細則に基づいての役割と日々の生活を始めた。その細則を見ていくと、意外に厳しい生活が要求されたことが分かる。基本的な立場はこれまで繰り返してきたように、「屯田…
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ロシアの反発を恐れながら屯田兵制を確立 家屋を作り第1陣が入植した
結局、屯田兵制度は明治6(1873)年11月に明治天皇の許可を受けることで、正式に発足することになった。開拓使と陸軍省の対立は、開拓業務については開拓使、防備については陸軍省が責任を負うことで話がつ…
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屯田兵をめぐる黒田清隆、山県有朋の対立 ロシア側の反応は…
明治6年に新政府は全国に徴兵令を公布して、国民皆兵の方針を国民に伝えた。といっても北海道には徴兵令を適用せず、青年男子はまず開発の先兵になることが要求されたのである。この明治6年ごろに、北海道の人口…
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ロシアは巧妙に樺太を開発…日本の北海道開拓防備戦略はアメリカを頼りにしていた
戊辰戦争が一段落ついた頃、ロシアとは樺太を日本との雑居地とすることで話し合いがついていたのだが、実態はロシア政府が巧妙に手を打って自国の領土に変えていった。明治2(1869)年には、ロシア政府は樺太…
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日本は隠忍自重で…樺太の漁場をめぐる日露のきわどい駆け引き
実は日本とロシアの領土を巡る戦いは、幕末から維新にかけては主に樺太が対象になっていた。屯田兵制が確立していく前段階として、樺太(幕府は北蝦夷地と称していた)を巡ってどのようなせめぎ合いがあったのか、…
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軍艦82隻が寄港…「箱館入港艦船数」から読み解くロシアの軍事的関心
ロシアのシベリアへの進出は16世紀後半からだという。この中心になったのがコサック兵である。この兵団は日頃は定まった地域に住み、農業、牧畜、さらには林業などに携わる。しかし一度軍事上の役目が与えられる…
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対露防備どころではない 混乱期に乗じたロシアの千島列島要求
ロシアが樺太と千島列島の両方に関心を持っていることが、安政に入ると次第に明らかになってきた。そこで幕府は蝦夷地の防備に次々と手を打っていった。安政2(1855)年には津軽、南部、仙台、秋田の4つの藩…
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陸戦隊が上陸し兵舎を建設…ロシア海軍の一方的な樺太占領
明治維新に至る過程で、ロシアと幕府との間ではしばしば衝突があった。ロシア側が北海道の根室などに来ては交易を求める。あるいは上陸して警戒中の日本の武士と衝突することもあった。たとえば文化8(1811)…
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ロシアから交易を迫られた日本はロシア南下政策への対抗が急務となった
ロシア人と日本との公的な接触は、寛政4年(1792)9月のことである。いわばロシアの使節ということになるが、陸軍中尉のラクスマンが幕府宛ての書簡を携えて、松前藩にやってきた。彼はかつて漂流してロシア…
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「ロシアは北海道に権限を有する」というミロノフ発言の意図
プーチンのウクライナ侵略は、20世紀型の帝国主義的侵略を21世紀にもほとんど同じ形で再現した点に特徴がある。いわばヒトラーの手法にも通じる怖さがあるわけだが、同時にスターリン的な発想がいくつもの面で…
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たとえ全面否認しても…単なる噂でシベリアに送られたスターリンの圧政
コロリョフはロケットの研究者として、ソ連では名前の知られた人物であった。こういう研究者たちが、反国家的人物として糾弾されるのがソ連社会の不思議なところであった。コロリョフが属していたのは噴射推進科学…
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ソ連の反革命犯罪で処刑された日本人捕虜たち
インディギルカ号は囚人船であり、広義にはシベリアの金鉱、石炭などの採掘に駆り出されたり、あるいは鉄道の建設、公共施設の造営などに従事させられたりというのが囚人たちの「服役」だった。この遭難事件がソ連…
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コリマ金鉱の収容所では1938年の1年間で2万6000人が処刑された
ウラジオストクから東部シベリアに送られる囚人護送船が、宗谷海峡を通過する時に両サイドに日本領が見えた。その時に囚人としての過酷な未来を考えて絶望し、海中に飛び込んで日本への亡命を企図する者もあった。…
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国家の言いがかりでシベリアに送られた青年たち
ソ連のシベリア開発における囚人の動員は1932(昭和7)年ごろから本格的に始まったらしい。この動員での囚人とはむろん刑法上の非道の犯罪者から、スターリンの政策に反対した疑いだけの者まで含んでいるのだ…
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明治新政府とロシア革命に共通する「人権無視」見せしめや社会的制裁目的で
ソ連邦はシベリア開発の労働力確保のために、政治上反体制的な立場の人物を徹底してこの厳寒の地に送った。安い労働力というよりは、見せしめや社会的制裁の意味を込めてのシベリア送りであった。革命の主敵の富裕…
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「日本側が仕組んだ」証言通らず…インディギルカ号の転覆後、政治犯は射殺された
1930年代、40年代に、スターリンは自らに反対する知識人らはいうに及ばず、それ以外の人々も反国家的人物とレッテルを貼ってシベリアに送り込んだ。そのルートがウラジオストクから収容所の入り口に当たるマ…
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インディギルカ号の船長が生存者を見捨てた原因は「囚人」だったから
しかし遭難事故から80時間以上が経過し、救助活動も終えて50時間近く経っている。もし転覆した船底に生存者がいるとすれば、船底に穴を開けなければならない。こうなると陸軍のような巨大組織が救助活動の先頭…
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遭難者395人を救助するも、まだ船内に人がいた。なぜなのか?
インディギルカ号の遭難事故に地元の北海道宗谷の猿払村では、漁民総出で救助活動を行った。ほかに青年団員、消防関係者、それに在郷軍人会などが嵐の静まるのを待って待機していた、その間にも多くの死体が海辺に…
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昭和14年12月12日に起きた1000人乗り「インディギルカ号」遭難の悲劇
ソ連のインディギルカ号(以下、イ号と略す)は、シベリアのマガダンからウラジオストクに向けて、樺太を海岸沿いに南下していた。宗谷海峡から日本海に入って寄港地に向かっていた。ところが日本海を暴風雨が襲い…