保阪正康 日本史縦横無尽
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米国は戦車や機関銃も準備できなかったが戦争を支え続けた
スペイン風邪の流行は、第1次世界大戦の終結が早まった原因にはなっている。前線ではこの病によって、兵士の士気が著しく下がったというし、戦争への嫌悪感も広がったといわれているほどだ。どこでどのようにして…
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米国はスペイン風邪とともに140万人もの兵士を送り込んだ
アメリカは当初、第1次世界大戦に参戦する状況にはなかった。もともとアメリカは20世紀に入っても豊かな国とはいえず、極端なまでに極貧層と富裕層の差が開いていた。しかし新興国の強みを生かし、理想主義的指…
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8万人から400万人へ アメリカの兵員動員力は一気に増えた
ドイツの軍事指導者たちは、アメリカの国力をそれほど高くは評価していなかった。南北戦争が落ち着いて、まさに統一国家になったのは日本が明治維新を迎えた頃と同じ時期であった。ヨーロッパの帝国主義国家のよう…
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輸送船、商船を撃沈されたアメリカがドイツに宣戦布告した
第1次世界大戦の帰趨が決した背景にはいくつかの事情がある。その最大の理由はアメリカの連合国軍への参加である。戦況が次第に深まってくると、国家総力戦という名の殲滅戦になっていった。つまり相手側の非戦闘…
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1918年の米騒動は富山県の漁港の主婦たちから始まった
このシベリア出兵は日本社会にさまざまな波紋を生んだ。こうした現象は第1次世界大戦の影響と言ってもよかった。そのひとつに、富山県の主婦を中心に始まった米騒動が挙げられる。シベリア出兵に7万5000人余…
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シベリア出兵で日本は4年間も兵を送り続けた
ロシアが第1次世界大戦から離脱することで、この世界戦争はもう一つ変わった局面が生まれた。ロシアのボリシェビキ政権が全国統一を成し遂げていなかったため、ロシア国内が内戦状態になったのである。特にシベリ…
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ボリシェビキ政権はドイツの社会主義革命を期待していた
ボリシェビキ政権は、疲弊しているロシア国民に「第1次世界大戦からの離脱」を約束した。戦争をやめ、とにかく平和を回復し、合わせて労働者の生活を安定させると約束し、農民には土地を与え、その勤労意欲も刺激…
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怪僧ラスプーチンによる退廃などからロシアは革命に向かう
怪僧ラスプーチンがロシア革命の火付け役になったとは言えないまでも、この怪僧が宮廷内部に混乱と退廃をもたらし、国民の怒りを買ったのは事実であった。こういううさんくさい霊能力者がなぜ、皇帝や皇后の信頼を…
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第一次世界大戦で500万人の戦死、戦傷者を出したロシア軍
第1次世界大戦は3年目の1917年以後は、その様相を一変した。大きく言えばこの戦争によって、人類史は新しい段階に入ったということだ。アメリカの連合国支援を目的とした参戦、ロシア国内での共産主義革命、…
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「ドイツはアメリカが参戦する意味を知らなかった」とチャーチルは記した
第1次世界大戦は1917年からまったく新しい時代への胎動期に転じていった。単にイギリス、フランスなどの連合国とドイツを軸とする同盟国の戦いという側面よりも、歴史が新しい方向に向かって進んでいくときの…
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日本の軍人は大戦の本質を正確に理解できなかった
第1次世界大戦で次第に軍事上の対立から政治、外交、あるいは情報といったさまざまな局面での対立が深まると、日本の軍人はその情勢を読めなくなった。彼らは日本にいて、ヨーロッパのこの戦争の情報を確かめて一…
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1917年にはどこの国民も戦争に厭き、各国でデモが起きた
第1次世界大戦が4年目を迎えた1917年には、戦闘の他にもさまざまな形の戦いの構図が出来上がった。基本的にはフランス、イギリスの連合国側とドイツの戦いが軸になっているのだが、その他の国々は戦争を継続…
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英仏連合軍がドイツと衝突 ソンムの消耗戦で126万人が死亡
ベルダンの戦いはフランス軍がドイツ軍の攻撃を持ちこたえて、死守する形になった。この作戦は徹底していて、フランス軍は兵力の8割を戦いにつぎ込んだというのであった。1916年2月に始まった戦闘では、年末…
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ドイツ軍は豊富な砲弾と手榴弾で塹壕のフランス軍を攻撃
西部戦線で、ドイツ軍はある時期から常に不利な戦いを強いられた。ドイツの陣営のオーストリアやオスマン帝国の戦力は次第に弱体化していき、フランス、イギリス、そしてロシアと戦う主体がドイツの軍事力であるこ…
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ドイツは「持久戦争」で難局を乗り切ろうとした
石原莞爾は、第1次世界大戦が4年半も続いたのは西洋人が意志が弱いからだと突き放している。決戦戦争で短期に決着をつけるべきなのに「西洋人」は意志が弱いから長引いたというのは、日本人の戦争観と異なってい…
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石原莞爾が分析した第1次世界大戦での仏・独の失敗
第1次世界大戦について、日本の軍人の中で、ドイツ軍の戦略論、あるいは戦争の歴史の中に踏み込んで論じた者はほとんどいない。しかし石原莞爾だけは自らの著(「戦争史大観」や「世界最終戦論」)の中で次のよう…
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ドイツ軍はベルギーを通過する時に市民6000人超を虐殺した
第1次世界大戦は1914年に始まったのだが、その最初の半年ほどがもっとも多くの戦死者を出した時期だった。ドイツ側にはフランスを破るための「シュリーフェン・プラン」という戦争計画があった。ベルギーとフ…
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ヨーロッパでは国家総力戦の実態が露骨になっていった
この第1次世界大戦では、人類史の上でいくつかの変化があった。例えば各国が参戦を決めていくプロセスは、際立った戦争目的があるわけではないのに、開戦が伝えられると国民は興奮と支持で街頭に出てきた。ベルリ…
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英仏軍とドイツ軍が塹壕で砲弾を打ち合う「塹壕戦」だった
中国の内情はこの時も、そして1930年代に入っても基本的な構図はそれほど変わりはない。一言で言うならば、中国はあまりにも体が大きいので、いきなり近代化への道筋にハンドルを切ろうとしても、そう簡単には…
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皇帝になろうとした袁世凱の前に「第二革命」は瓦解した
袁世凱が自ら皇帝になろうと決意したのはいつのことか、定かにはわからない。辛亥革命後は孫文らとの間で、共和制の堅持、大総統制枠組みの中で、自らの権力を固めることになった。しかし南方に足場を置く孫文らと…