保阪正康 日本史縦横無尽
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軍人も国民も「日本人の先達に申し訳ない」と考えていた
石橋湛山は「一切を棄つるの覚悟」の中で、とにかく日本は本来の北海道、本州、四国、九州、そして沖縄を持てば良いのであり、近代日本になって植民地として拡大した朝鮮、台湾などを全て放棄せよというのである。…
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東洋経済新報社説で「一切を捨つる覚悟」を説いた石橋湛山
日本は言論史の上からは、第1次世界大戦後の国際協調路線の下で、いわゆる民主主義的な言論や評論、それに小説などが流行となった。日本社会にルネサンスともいうべき状況が生まれたと言ってもよかったのである。…
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戦間期の日本のねじれと知識人の葛藤
第1次世界大戦の戦後処理をめぐるパリ講和会議で、日本の立場は一気に国際社会のトップランクに達した。さてその頃、日本社会はそれまでの明治期の政治状況とはまったく異なる顔を持つ国になった。いわゆる知識人…
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吉野作造は大正デモクラシーの代表的論者だった
パリ講和会議のあと、日本社会は、総合的には大正デモクラシーと評される民主主義の波をかぶることになった。これまで語ってきたように近衛文麿の英米本位の世界秩序への異議申し立てもそういう流れに組み込まれる…
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日本の思想の見本市のような空間となった中江丑吉の借家
中江丑吉の人物像について続けよう。丑吉は北京で表面上は、袁世凱政府の日本人顧問役の有賀長雄の秘書という肩書も持っていた。この点では孫文に肩入れする日本人志士たちとは距離を置いていた。そして満鉄のスタ…
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中江兆民の息子・丑吉と中国の関わり合い
パリ講和会議において、日本は中国への権益の確保と人種問題について声高に意見を述べた。しかし他の問題については沈黙を通した。5大国に入ったといっても、先進帝国主義のような政治的力量を持っているわけでは…
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「日米もし戦わば」のキャンペーンが日系移民の立場を悪化
ここからは第1次世界大戦を離れて、日本人とアメリカ国民との間に広がった不信感、あるいは憎しみについて触れておきたい。第2次世界大戦の太平洋戦争で、日本の軍事指導者は「鬼畜米英」と叫び、とにかく憎悪を…
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近衛文麿も書いた白人の黄色人種への嫌悪
パリ講和会議で日本が持ち出した人種問題については、民族間の感情が絡むこともあり、わずかの討議で片がつく問題ではなかった。ヨーロッパにおいては、自分たち白人以外は人間と認めない頑迷さがあった。この感情…
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米国が日本の人種問題条文を拒否した理由
講和会議での日本は、自国に関わりを持たない問題に関しては、基本的に口を挟まなかった。ドイツから獲得した中国の権益と人種問題だけに口を開いた。すでに知られていることだったが、ドイツから獲得したのが中国…
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西園寺公望や牧野伸顕は軍事一本の外交路線と対立した
近衛文麿がこの代表団に加わったのは元老の西園寺公望がその将来に期待をかけているためであった。天皇制下の日本が軍事や政治のバランスを保って歩んでいくには、天皇に近い公家華族の側近が必要であった。さしあ…
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パリ講和会議によって戦間期がドイツの復讐の期間となった
ドイツが結局、敗戦を受け入れたのは西部戦線でも連合軍に押されていったこともあるが、兵士の間に勝ち目の薄れた戦争にすっかり嫌気がさしたり、後方のドイツ社会で戦争反対による革命の機運が盛り上がってきたこ…
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「歴史の神」はレーニンとウィルソンそしてヒトラーを生み出した
第1次世界大戦と第2次世界大戦は連結しているのではないか。もっとわかりやすくいうならば、20世紀の前半に人類史が劇的に変わったのではないか、と思われる。それは従来の戦争の概念を変えることで、戦争によ…
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日本は政治、外交において国際社会の孤児となった
どのような組織でもそうなのだが、実態を正確に掴む者と掴めない者とがいる。第1次世界大戦の軍事的分析にはそれがよく表れていた。冷静に分析した者は要職から外れ、感情で分析した者は出世の階段を上っていった…
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持久戦争では政治に調整を依頼しなければならない
石原莞爾は第1次世界大戦でドイツ軍が最終的に敗れたのは「統帥権独立」を掲げた「ヒンデンブルクとルーデンドルフの最高統帥」に対して、カイゼル(皇帝)といえども対抗できなくなったために軍事が脆弱になって…
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ドイツの軍事力の弱体化と統帥権の関係
石原莞爾は都合4年ほどのベルリン留学で、第1次世界大戦をはじめヨーロッパの戦争を詳細に調査、研究して日本に戻った。そして陸軍大学校の教官を務めたのだが、その折に作成した講義ノートは、それ自体がのちに…
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石原莞爾は「次は日本とアメリカの戦争になる」と断言した
東條英機がドイツに駐在したときに、第1次世界大戦から学んだのは精神論に基づいた軍事論であった。理論よりも感情を重視するこの将校は日本に戻って陸軍大学校の教官を務めたが、その講義は極めてドイツに肩入れ…
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東條はドイツの敗因を厭戦思想に求め反対意見を排除した
第1次世界大戦が日本の軍人にどういう影響を与えたかを2つの面から見ていく必要がある。 1つは武器、軍備の変化、ないしは新しい武器の登場である。つまり戦争はこれまでと全く異なった軍事行動に変化…
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外相の加藤高明が大正天皇に根回しして参戦を強行した
第1次世界大戦に参戦した日本は、手続き上は御前会議で天皇の了解を得なければならなかった。大隈重信内閣の外相は加藤高明であった。ところが加藤は、大隈の了解のもとにすぐに対独開戦を決めている。そのうえで…
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日本人は第1次大戦からどんな教訓を学んだのか
第1次世界大戦の終結は開戦がそうであったように、なし崩しの形で終わった。その特徴は、4年余も戦っていたことによる戦争当事国の疲労、そして戦争の意味が次第に拡散したこと、さらには20世紀の世界新秩序が…
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ドイツ軍の損失は134万人…スペイン風邪の患者は50万人に
1918年9月には、西部戦線でのドイツ軍は次第に攻勢から防御の戦争へと変化した。イギリス、フランスなどに加え、アメリカ軍兵士の大量投入がドイツ軍を圧倒したともいえたが、ドイツの戦争における権益確保の…