保阪正康 日本史縦横無尽
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丸山眞男が目撃した原爆の「悪魔の光」
戦時下に広島にいて被爆した知識人は、どのような考えを持ち、戦後社会にどのような見解を伝えたのだろうか。私たちはそのような歴史的な意味を正確に知っておく必要がある。 戦後、民主主義に立脚して、…
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校庭は一瞬で地獄絵図に…「必ず復讐してくれ」と叫んで死んだ中学生
原爆投下に日本の知識人は、どのような反応を示したのか。それを確認することは、人類史上で初めて使われた大量殺人兵器の被災者となった日本人が、今後も世界に向けてその非道さを訴えていかなければならない宿命…
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科学者と軍部は米国のラジオ放送で広島に投下された新型爆弾が原爆だと気づいた
テニアンから飛んできた原爆搭載機が広島に投下したのは8月6日の午前8時15分である。これが原爆だとは軍事の技術将校たちは全く思わなかった。軍事機構の中にも科学者たちは多かった。 帝国大学での…
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エノラ・ゲイ号はテニアン島ではなくワシントンに無線を打った
大本営陸軍部の情報参謀・堀栄三は、情報分析に抜きんでた才能を持っていた。太平洋戦争でアメリカ軍の反攻によって、日本がかつて制圧した南洋の島々が次々に奪回されていくとき、堀は次にアメリカ軍のどの部隊が…
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ポツダム宣言黙殺は原爆を使いたがるアメリカ軍上層部にとって好都合だった
アメリカが原爆の投下実験に成功したのは7月16日であった。その報告はすぐにポツダムにいるトルーマン大統領にも伝えられた。7月24日には参謀総長代理など軍部の首脳部がまとめた原爆攻撃の最終案がまとめら…
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日本はソ連が対日戦に踏み切らないよう必死だった
想定のひとつは、日本がこの頃にソ連にいかに媚態を示していたかという点だ。日本はソ連に、この戦争のアメリカ、イギリスとの講和の仲介を依頼していた。正式には、モスクワに特使を送り、仲介をより具体的にして…
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ソ連大使館員が被爆直後の広島を視察 それは今も謎として残る
駐日ソ連大使館の書記官が、被爆直後の広島に入ったのはむろん史実として伏せられている。つまり、これまで日本では公式に語られていない。東京から広島までは、距離にするとほぼ700キロ離れているのだが、東京…
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広島への原爆投下で、スターリンは何を調べようとしたのか
東西冷戦下の旧ソ連の諜報員の話をさらに続けよう。私がモスクワで新聞記者たちと諜報員の話を聞いたのは旧ソ連の社会主義体制が崩壊した直後であった。生々しい話が多く、私はこの種の話が全て事実だとは思えなか…
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旧ソ連がアメリカ中に情報網を築いた可能性
ベトナム戦争では北ベトナムを攻撃するアメリカの爆撃機や偵察機がしばしば北ベトナム軍によって撃墜された。パイロットたちは脱出しても大体が捕虜として捕まる。そこで北ベトナムの将校から取り調べを受ける。こ…
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スパイには共通点が…引退後も夢にうなされ監視の不安と戦う
私は、昭和史の史実を確認するために多くの人々に会ってきた。その中で諜報関係者にも少なからず会っている。むろん日本人だけでなく、アメリカ人、ロシア人、中国人などさまざまである。その中でまず諜報、いわゆ…
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スパイは人間不信になるし人格も二重、三重に屈折していく
諜報員は、それぞれの国で情報教育を受けてという形を取るのだが、その場合、諜報員とは思われない人物こそもっとも効果的である。第1次世界大戦では、各国の諜報員はそれぞれに特徴があった。ドイツ、ロシアなど…
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苛烈な戦争を体験したドイツ、英国でスパイ技術が格段に進歩した
第1次世界大戦後のワシントン会議での日本全権団と日本政府の電報のやりとりは、アメリカの情報機関によって見事に盗まれていた。それは主にハーバート・O・ヤードレーが動かしていたブラック・チェンバーが率い…
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米国は潜水夫を使い、海に沈んだ日本の艦艇から暗号を盗んだ
中国には古来、戦争にまつわる言い伝えがあった。例えば「良い鉄は釘にはならない」というのは、常識のある人物は兵隊にはならないというのであった。傭兵を軽く見ることだと言えようか。「愚か者は将軍と間諜(ス…
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米国の情報解読機関は日本海軍の暗号解読に苦戦した
ワシントン会議での日本海軍は、主力艦の排水量を6割でまとまったことに不満であった。いつか痛い目にあわせてやろうという不満を心中に秘める幹部もいたのである。戦略上は戦艦、巡洋艦などの主力艦はアメリカ、…
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日本は「英米の排水量6割」という海軍軍縮条約に同意
原敬首相はワシントン会議に強い期待を持っていることを隠さなかった。軍備を抑制する方向に賛成だったからである。 「(軍備を制限することで)国民の負担を軽減することを得るならば、最も歓ぶべきところ…
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アメリカの大衆紙は「日本は危険な国だ」と書き立てた
日本とアメリカがいずれ武力対決に至るのは、パリ講和会議やワシントン会議の内実を見ていくと容易に想像することができた。20世紀に国際秩序の中に入って地歩を固めた2大勢力であり、ヨーロッパ主体の世界の枠…
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日本とアメリカは共にアジア支配の野望を抱いていた
第1次世界大戦後の戦後処理をめぐるパリ講和会議に、日本も5大国の1カ国として出席した。そこで対中国問題と人種問題だけは積極的に発言したが、その他の問題にはほとんど口を挟まなかった。その沈黙は他の主要…
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「昭和よ、お前は暗闘と改めよ」と説いた桐生悠々
5大言論のひとり、桐生悠々についても説明しておきたい。昭和の前半に限れば、もっとも言論人としての矜持を守ったのはこの人物以外にいないと、私は考えている。 桐生はもともとは信濃毎日新聞の論説委…
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内村鑑三は過去を恥じて日露戦争に反対した
近代日本の「5大言論」についてもう少し書いておきたい。内村鑑三の日露戦争の非戦論は、黒岩涙香の主宰する「万朝報」の主筆として書かれた論説であった。こうした論説は英文で書かれたのだが、内村は札幌農学校…
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日本の道を示した5人の思想家の国家論
今回と次回の2回はこれまでの流れと趣を変えて、「近代日本の5大言論」について触れておく。日本社会を変えるほどの大きな影響力を持つ言論は、やはり日本社会に燦然と輝いている。それが5つあるのではないかと…