保阪正康 日本史縦横無尽
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「義」に生きる…辛亥革命を支えた500人の日本人たち
山田純三郎宅に、2人の中国人が訪ねて来て、陳其美に会いたい、自分たちは同志で資金面での協力ができると巧みに説いた。其美の側近が断ったにもかかわらず、彼らは部屋に入ってきて、其美を狙ってピストルを撃っ…
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袁世凱は孫文の腹心の部下である陳其美を狙った
溥儀は撫順の収容所を出たあとで周恩来の助力を受けながら、中国政治協商会議の満州族の代表という立場で漢民族と満州族の融和に努めた。溥儀は心理的な充足感を味わったであろう。というのは清朝帝政は、孫文らに…
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周恩来は溥儀に「人民に奉仕することこそ大切だ」と言った
溥儀は撫順の収容所では、極めて模範的な「囚人」だったという。日常は定められた通りのスケジュールをこなした。もともと知性派と言われる性質だったというのだが、溥儀自身は自らの運命をこの収容所で受け入れる…
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母親の浩と慧生は周恩来の計らいで北京で暮らすはずだった
昭和32(1957)年12月といえば、太平洋戦争が終わって12年が過ぎている。戦争の傷跡は少しずつ薄れていた。とはいえ満州国皇帝溥儀の姪である愛新覚羅慧生の同級生との心中事件は、世間を驚かせた。当時…
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溥傑の娘・慧生は天城山でピストル自殺を遂げた
溥儀は新中国でどのような扱いを受けたのか。最高指導者の毛沢東や周恩来の意向は、国を売る存在と見てはいたが、処刑という罰は考えていなかった。現に溥儀は撫順の戦犯収容所に収容されたが、そこで新生中国の一…
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顔に煤と泥を塗りたくり…皇帝・溥儀が取った奇妙な行動
溥儀の表情が沈んでいくのを、通訳のペリミヤコフは見ていたわけだが、慰めの言葉はかけようがなかった。ハバロフスクの収容所では、戦犯といえども、それほど酷い扱いを受けていたわけではない。いわば収容所内で…
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溥儀が性的不能者だった理由 それは女性に対するトラウマ
愛新覚羅溥儀は東京裁判で証人としての証言を終えると、再びソ連のハバロフスクの捕虜収容所に戻された。その立場は戦犯としての扱いであったが、かといっていわば日本の軍人のような過酷な扱いは受けていない。い…
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満州に建国神廟を建立した溥儀の言い訳「坤寧宮を拝む」
2回目の日本訪問のあと、溥儀は新京に戻ると皇居の中に神社(建国神廟)を建立した。祭神は天照大神であった。 「社殿は、銅板葺木造の権現造りであった。社殿の外には、溥儀が命じて建てた木造の大鳥居が…
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溥儀は「神社に不敬を行ったら懲役に処されるはずだった」と主張した
溥儀は日本の天皇制に対して、その歴史的伝統を満州国でも取り入れようとしていた節があった。第1回の日本訪問でも「天皇陛下と精神一体」との感想を満州国民に伝えている。一方で「皇紀2600年」である昭和1…
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東京駅まで直接出迎え…溥儀を身内のように迎えた天皇一族
愛新覚羅溥儀は、生命を長らえるのは自らの与えられた場でその役割をこなすことだと、割り切っていたといえるだろう。日本軍国主義の傀儡として振る舞うように要求されると、その役を忠実に務めた。大日本帝国崩壊…
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「溥儀は歴史に振り回されて生きてきた」と通訳は言った
ソ連のハバロフスク収容所に捕虜として収容された溥儀に、通訳のペリミヤコフ(ロシア人)はほとんど日常的に会っていたという。溥儀はソ連の共産党に入党したいというだけでなく、あれこれ嘆願書をソ連政府の要人…
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溥儀の入党申し込みはスターリンによってはねつけられた
溥儀はハバロフスクの収容所で、共産党に入党したいとの嘆願書を出した。そのコピーが私の手元にもあるのだが、ソ連共産党の書記長であるスターリンに宛てた文書である。 「前満州国皇帝 愛新覚羅溥儀」の…
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「共産党に入党したい」と溥儀は真面目な顔で言った
溥儀とその家族、そして随行の日本の軍人たちがソ連軍の捕虜になったのは昭和20年8月18日であった。日本への脱出を考えて新京から南下を続けているときである。通化県のある地であったという。 溥儀…
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「溥儀は皇帝として生まれてきた人だった」
満州国皇帝溥儀に会った人、あるいは歴史的な関係で同じ場にいた人などを含めて、「あなたは溥儀を見たことがありますか」との書を書こうと思った。1990年代である。結局書かなかったのだが、その時に日本人、…
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満州事変後、関東軍はひそかに溥儀の皇帝服を作っていた
満州国の皇帝になる愛新覚羅溥儀は、辛亥革命で皇帝の立場を失った。270年ほど続いた清朝帝政は倒れたのだが、かなりの期間、紫禁城に住むことは許された。 革命が成ったといっても孫文らの影響力はま…
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満州国の執政に就いたとき39歳 溥儀は笑顔のない人だった
満州国の執政に就いた溥儀は、その望みどおり昭和9(1934)年3月1日に皇帝としての即位式が行われた。満洲国は帝政を実施することになったのである。それから11年5カ月後の昭和20(1945)年8月1…
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日本側の思惑を感じつつ26歳の溥儀は満州国の執政となった
昭和7年の5・15事件から同11年の2・26事件までのおよそ4年間、日本社会はファシズム体制を目指してまっしぐらに進んだ。むろん軍部が音頭を取ってということになるのだが、これに呼応する庶民の大半も軍…
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事件の裏側 陸軍省は軍への批判を封じ込め警察も萎縮した
ゴーストップ事件は天皇の一言で一気に解決に向かい、発端であった中村一等兵と戸田巡査が握手をして落ち着いた形になった。騒ぎも半年を過ぎてひとまずは解決したのである。しかしその解決の裏には、陸軍と内務省…
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陸軍と警察の意地の張り合いに天皇までが言及した
昭和8(1933)年6月17日に起こったゴーストップ事件は、10月になっても解決しない。最終的には陸軍大臣の荒木貞夫のところまで情報が届く。荒木は、大阪府警察部に謝らせるといきり立つ。皇軍の兵士に無…
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兵士と巡査が格闘 陸軍と警察の確執「ゴーストップ事件」
その事件は、昭和8(1933)年6月17日に起こった。とりとめもないさまつな事件のはずであった。 大阪の天神橋6丁目で赤信号を渡ろうとした一兵士(陸軍歩兵第8連隊の中村一等兵)が、交通整理を…