保阪正康 日本史縦横無尽
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証拠隠滅の命令が発せられ戦争関連の書類が燃やされた
昭和20年8月14日の夕方から15日にかけて、日本の官公庁や外地の日本政府、日本軍関係の建物からは書類を焼く煙が上がり続けた。戦争関連の書類を全て焼却せよとの命令が発せられたのである。大本営の命令に…
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永井荷風、山田風太郎、徳川夢声…終戦めぐる著名人の感想
昭和20年8月15日正午、日本は敗戦を受け入れることになった。これは何を意味したのであろうか。つまりこの戦争は歴史上にどのように記録されていくのであろうか。私は幕末維新からの近代日本がひとつの決着点…
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天皇の地位は連合国の「隷属」をめぐる本土決戦派との攻防
バーンズ回答は、日本側の問い合わせに明確に答えていない。どうぞ日本側でご自由に解釈しなさいというのが、その本意であった。この回答の中で、天皇の地位に関する英文の一節に「subject to」という…
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8月10日未明 ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議は3対3に
昭和20年8月6日と9日の広島、長崎への原爆投下、そしてソ連の参戦。日本はこれ以上、戦争を続けるのは到底無理であった。軍部の強硬派グループが本土決戦を主張したにしても、それは特に根拠があるわけではな…
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2度の原爆投下、ソ連の中立条約破棄 日本は孤立状態だった
アメリカ、イギリス、そしてソ連の首脳によるポツダム会議は昭和20年(1945)7月17日から8月2日までの間、開かれた。ドイツの敗戦後の占領について討議されているが、この議題の後はまだ戦い続けている…
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スウェーデン、スイス、バチカン王国 3つの和平工作も失敗
ソ連を仲介とした日本の和平工作は失敗だったのだが、このことは何を物語っているのだろうか。ソ連を頼みとすることのおかしさも指摘できるが、一方で講和のプログラムをもともと持っていなかったことのツケが最終…
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ヤルタ会談でソ連はルーズベルトの意を受け日本攻撃を決定
ソ連を仲介としてアメリカとの和平工作を進めるというのは、日本にとって錯誤の上に錯誤を重ねるようなものであった。駐日大使のマリクは広田との第1回の会談(6月3日、箱根の強羅ホテル)で、広田から新たに友…
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ソ連はポツダム会談に忙殺され日本政府をあしらい続けた
ソ連を通じての和平交渉は、奇妙な挨拶で始まった。広田弘毅は、ソ連がドイツを降伏させたことに敬意を表するところから始めた。その上でソ連とともに近い距離で居たいと申し出た。これに対して駐日ソ連大使のマリ…
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3つの和平工作にあえて「ソ連ルート」が加えられたが…
沖縄戦の終結によって、戦争を止めなければ大変な状況になっているとの認識が政治指導者や軍人の中にも広がっていた。その一方で、いやまだ本土決戦がある、国民が一丸となって戦い、本土決戦でアメリカ側に多大な…
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作家・伊藤整も信じて騙された大本営のウソ発表のからくり
沖縄戦について、国民はどのような感想を持っていたのだろうか。大本営発表は、この間都合6回にわたって行われたが、この段階ではもう隠しようがないため、状況が良くないことはある程度伝えられた。6回目の発表…
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沖縄の高齢者たちは今もクルマや飛行機の音に怯えている
沖縄戦は空と海、そして地上の戦いであったのだが、地上戦は県民を交えての総力戦になった。第32軍は確かによく戦った。アメリカ軍が南下するのに2カ月間をかけさせている。むろんその陰には県民たちの戦い、そ…
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連絡会議の出席者で息子が戦死したのは伊藤整一だけだった
沖縄戦で戦艦大和があっけなく沈んだ時に、第二艦隊長官の伊藤整一について、「ある視点」からの史実を語っておきたい。この史実は戦争を「歴史」として見る時にはさほど重要視されるわけではない。しかし「人間の…
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4月6日の特攻作戦 1日で341人もの若い隊員が討ち死にした
沖縄戦は空、陸、海の三方から挑んだ、いわば日本軍にとって最終的な戦いであった。これまで大和を軸にした第二艦隊の沖縄特攻について触れてきた。空からの援護もない状況であったが、沖縄戦では日本本土から特攻…
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司令官の弱気を避けるためだった「大和特攻作戦」の愚挙
昭和天皇がこの作戦(大和特攻)を敗戦を意識させるものとしたのは正しい理解だった。第二艦隊を軸にして進めた沖縄特攻作戦の戦略のなさには、日本海軍の致命的な失敗であったという見方があった。 その…
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天皇は大和の出撃を「馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と語った
天皇の御下問(「大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」)に対して、海軍側の結論は次のような内容であったらしい。これは森本忠夫の「特攻」からの引用になるのだが、海軍省人事局長の三戸壽少将と軍令部作戦部長の…
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日本の無能な戦争指導者の追い詰められ自暴自棄を生んだ
沖縄戦は空、陸、海とすべての軍事力をつぎ込んでの戦いとなった。言ってみれば日本にとっての最後の戦いの様相を帯びていた。4月1日に陸海軍の軍令の責任者の間で、昭和20年前半期の申し合わせとして、「全機…
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武器はスコップ…沖縄は意味のない時間稼ぎに利用された
沖縄戦はいわば本土決戦の第一幕というべきであった。硫黄島も確かに本土決戦というべきであったが、こちらは住民がおらず、戦闘員と戦闘員の衝突であった。住民を巻き込んでの軍事衝突という意味では、まさにこの…
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4月1日、米軍は1000隻近い艦船で沖縄に上陸を開始した
日本本土を目指すアメリカ軍は沖縄を一気に制圧して、その航空基地から日常的に本土爆撃を行おうとしていた。沖縄本島に上陸を開始したのは4月1日であった。この上陸部隊は千数百という上陸用船艇で、沖縄本島の…
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決戦と持久、航空優先と地上優先の対立を大本営は見逃した
硫黄島の守備隊が壊滅状態になってすぐに、アメリカ軍は沖縄への上陸作戦に入った。まさに休む間もなくという感じである。比島沖海戦以後の日本軍は、実際にはもう戦う戦力はなかった。いわばアメリカ軍のなすがま…
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戦死を前にしてルーズベルトに手紙を書いた市丸利之助少将
硫黄島の守備隊は、最終的には3月17日に大本営に玉砕する旨の電報を送り攻撃を終える意思を示した。しかし島内に散っていた守備隊の各部隊はほとんどがアメリカ軍の攻撃によって全滅に近い状態であった。3月1…