保阪正康 日本史縦横無尽
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硫黄島では栗林忠道の指揮でゲリラ戦が決行されるも玉砕
太平洋戦争の3年8カ月を5段階に分けて、第4期の「解体」の期間は絶望的な状況といってもよかった。勝利の可能性は全くなく、何のために戦っているのかという意味さえ不明な状況になった。軍事指導者たちはただ…
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美濃部は「一億総特攻の空々しさを国民は知らぬ」と記した
美濃部のノートには、特攻作戦をすすめた1航艦司令部の大西瀧治郎や参謀たちが、レイテ作戦の失敗のあとに司令部をクラーク基地から台湾に移したことに激怒の言葉が書かれている。それが学徒兵や少年飛行兵を特攻…
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突入したのは訓練もろくに受けない学徒と少年飛行兵だった
木更津での飛行部隊での指揮官を集めた会議で、特攻作戦に異を唱えた芙蓉部隊の指揮官・美濃部正は、軍法会議にかけられることはなかった。むしろ1航艦の司令長官の大西瀧治郎から、一晩語り明かそうと彼の部屋に…
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死刑覚悟で「特攻作戦だけでは勝てない」と意見した指揮官
特攻作戦に公然と異を唱えた航空部隊の指揮官がいる、と海軍の軍人たちから密かに聞いたことがある。昭和の終わりのころである。本人も戦後は口にしないし、海軍内部でもあまり公にはされていない。私はある軍人の…
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海軍軍令部は大西瀧治郎に神風特攻作戦の責任を押しつけた
海軍の特攻戦略は、ひとたび弦を離れた矢のように一直線に突き進んでいった。大西瀧治郎が矢を放ったことになるが、この戦略は戦術として妥当なのか否かという問いかけが行われる空気はなかった。特攻隊の隊員たち…
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海軍は大西瀧治郎が言い出す前から特攻作戦を進めていた
繰り返しになるが、特別攻撃隊の作戦が現実に行われることになって、逆に日本の戦争政策はある構図を示すことになった。例えば海軍士官は、その性格からいっても技術者としての側面があり、加えて青年期から世界を…
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都合290回に及ぶ特攻作戦 約4000人のパイロットが散華した
特攻作戦についての不明朗さは極めて簡単な表現で語ることができる。特攻作戦は大西瀧治郎によって発案され、実際に実行されたのだという神話である。 確かに大西は積極的にこの作戦を進めた一人ではある…
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関行男隊長の神風特攻隊はアメリカ軍に大きな衝撃を与えた
神風特攻隊は関行男大尉を隊長とする攻撃隊が最初であった。「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という本居宣長の和歌からとって、敷島隊、朝日隊、大和隊、山桜隊、それに菊水隊(楠木正成の旗印)などで…
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レイテ沖海戦の囮作戦は失敗だった 機動部隊は壊滅状態に
確かに小沢部隊はアメリカ軍の機動部隊をおびき出す囮の役を果たした。しかし、このレイテ海戦はそういう囮作戦で急場をしのげるものではなかった。栗田部隊はレイテ湾に突入することなく反転してこの作戦から離脱…
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アメリカ軍の戦死、戦傷者は240人 日本軍は5000人に達した
レイテ決戦の内実を見ていくと、戦力比の違いがより鮮明になってくる。明らかになっている資料などで大まかにその戦いの様子を書いておこう。なぜなら、このレイテ決戦から特別攻撃隊の作戦が発動されたからである…
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瀬島龍三はインタビューで「そんなこと言った記憶はない」
台湾沖航空戦はなぜ正確に陸軍に伝わらなかったのか、その点を前回の続きとして検証したい。 当時作戦参謀の瀬島龍三は堀の電報を無視する形になったのだが、そこにはどのような判断があったのだろうか。…
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「きみの電報を握りつぶした」と打ち明けた瀬島龍三
情報参謀の堀栄三が送った台湾沖航空戦への疑問の電報は、大本営作戦部にどのような影響を与えたのか。つまりは与えなかったからルソン島決戦はレイテに変えられたとも言える。大本営の情報参謀の杉田一次も東京か…
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大戦果を信じ込み…大本営は強引にレイテ決戦に舵を切った
一情報参謀の感想は所属部長の情報部長に電報で送られた。堀栄三が鹿屋基地から打ったその電報がどのような形で処理されたのかなどはわからない。堀にはどう見ても2、3隻の戦艦に損害を与えたに過ぎないと思われ…
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海軍の報告に疑念「陸軍のパイロットはまだ帰ってこない」
台湾沖航空戦の虚報はどうして起こったのか、そしてそれを陸軍が全く知らなかったというのは事実なのか。前回、3条件がこの背後から浮かび上がると書いたが、そのうちの①と③について今回は記しておきたい。 …
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大本営は大勝利という「虚報」で50万人の戦死者を出した
台湾沖航空戦の勝利は全くの虚報であった。大本営発表は10月12日から15日までの間に6回にわたって行われた。発表では空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他艦種不詳13隻など、日本軍は徹底的にアメリ…
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大本営発表の嘘 台湾沖航空戦で敵に大打撃を与えたはずが
小磯内閣になっても現実には戦争継続の方針は変わりなく、むしろ一度でも勝機を掴んでという意地が軍事指導者の姿勢となった。サイパン陥落に続く戦場は比島での決戦に照準を合わせた。そのために比島にいる第14…
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海軍と陸軍は資料を「メーキング」して天皇を騙していた
東條英機内閣が総辞職したのは昭和19年7月18日である。後任を決めるにあたって、この戦争をまだ続けるのか、それとも講和を目指す内閣にするのか、それが問われていた。これは近衛文麿が日記で明かしているの…
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昭和19年7月 岡田啓介ら重臣の包囲網で東條内閣は倒れた
東條内閣打倒の動きは、いくつかのルートで活発化したのだが、もっとも力を持ったのは海軍の長老ともいうべき存在で、重臣(首相経験者)でもあった岡田啓介であった。岡田は2・26事件当時の首相で、青年将校の…
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サイパン陥落 東條は「まだ真剣にならないのか」と言った
サイパンの陥落によって日本国内に絶望的な空気が漂うようになった。むろん、7月7日の玉砕はすぐには国民には伝えられなかった。 7月18日の大本営発表では、守備部隊は7日早朝より「最後の攻撃を敢…
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あ号作戦は失敗 日本軍は民間人の投降を許さず次々と殺害
日本海軍がアメリカ軍の機動部隊と戦い、相手の戦力を大幅にダウンさせようと企図した「あ号作戦」は、戦力の上では圧倒的にアメリカ軍が有利であった。日本側は空母9隻、戦艦5隻、重巡11隻、駆逐艦29隻など…