保阪正康 日本史縦横無尽
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大正天皇は他人の言葉も理解できないほど体調が悪化した
皇太子がヨーロッパ訪問を終え、日本に戻ってきたのは、大正10(1921)年9月3日であった。ほぼ半年に及ぶ視察旅行であった。皇太子の乗った「香取」が横浜に着く前に、原首相は水雷艇に乗って、このお召し…
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58年後に会見で明かされた 皇太子とジョージ5世との懇談
イギリスでの皇太子は、国を挙げての歓迎に船中で学んだマナーで堂々と答礼を返した。供奉団の一行は胸をなでおろしたと各人の外遊記には書かれている。バッキンガムでの歓迎晩餐会では、ジョージ5世が「殿下は我…
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皇太子がイギリスから最大級の歓迎を受けた「2つの理由」
皇太子に随行する供奉団は、珍田捨巳を中心に皇太子教育のカリキュラムを作った。そのカリキュラムに沿って、皇太子を国際社会に初めて顔を出すのに恥ずかしくない青年君主に育てた。原は、イギリスの君主制を学ん…
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皇太子の外遊計画をめぐって出てきた「宮中某重大事件」
皇太子の外遊計画は結果的には大正天皇、皇后、山県らの元老、原首相、宮内官僚の牧野伸顕、それに外務省をはじめとする官僚たちも賛成を公言した。こうして計画は、外務省と宮内省、そして海軍省が中心になって練…
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原首相が説得役に 貞明皇后に皇太子の外遊の必要性を説く
原首相の時代は、国の内外でさまざまな問題に出合っている。あえて国内問題で言えば、天皇家の新しい事態に対応しなければならなかった。大正天皇の体調が思わしくなく、陸軍の大演習を閲兵する時も明らかに乗馬に…
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新人の永井柳太郎が「西にレーニン、東に原首相」と批判
大正8(1919)年12月26日に第42議会は開かれた。この議会では大正天皇の病状が悪化しているとの理由で、開院式には天皇の出席はなかった。そのため勅語は原敬が代読している。原は開院式の後で山県と会…
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原は猟官運動や金をたかりに来る政治家を客人として遇した
日本の近現代史では、明治23(1890)年に議会政治が始まって以来61人の総理大臣が生まれた。この中で原は10人目に当たるのだが、すでに述べたようにそれまでの総理大臣とは全ての面で異なっていた。政友…
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原敬内閣のもとで早稲田、慶応など私立大学が生まれた
原首相に対して世間では、これまでの藩閥政治に対抗して政策を進めることができるとの声が多かった。原の支援者である宮内大臣の牧野伸顕は「原君は政治家の資質に溢れている人であり、私心なき人、胆力と度胸の据…
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原敬の政党政治を何としても妨害したかった元老の山県有朋
原敬が内閣を組織したのは、大正7(1918)年9月29日であった。流行性感冒に罹ったのはその1カ月ほど後のことであった。もしこの感冒の症状が重くなっていたら、原は史上稀にみる短命内閣で終わったかもし…
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原敬は北里研究所の祝宴に招かれスペイン風邪にかかった
大正9年8月からの第3期の流行性感冒の流行には、内務省も本格的な対応を行った。 内務省の衛生局がまとめた報告書(「流行性感冒」)によるなら、地方衛生技術官会議を開いて対策を具体的に話し合った…
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内務省は感染防止対策のため具体的で視覚的な通達を送った
第1期の半ばに当たる大正8(1919)年2月に内務省衛生局が各地方長官(知事のような役目を担っていた)宛てに送った通達は、具体的でかつ視覚的に国民に訴える図柄を使っている。 まず一般国民に次…
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スペイン風邪を「流行性感冒」と呼んで内務省が調査した
スペイン風邪のことを、日本では「流行性感冒」と称した。この感染症にどう対応するか、その頃の原敬内閣は全て内務大臣の床次竹二郎が前面に出て予防策などを講じていた。内閣関連の資料などを読んでも、もっぱら…
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患者100人のうち4.96人が死亡したスペイン風邪流行の法則
大正7(1918)年からのスペイン風邪の流行について具体的な特徴は不明ながら、ある種の「法則」のようなものを内務省衛生局が列記している。その報告をもとにあえて法則に類する記述を整理してみることにしよ…
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国民の約4割がスペイン風邪にかかり、38万人超が死亡した
日本社会にスペイン風邪が流行し始めたのは、大正7(1918)年8月の下旬から9月上旬であった。この時から10年7月に至る3年の間に3回のピークがあった。こうした数字や流行の傾向については、内務省の衛…
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日本が降伏しなければ毒ガス、細菌兵器、3発目の原爆が投下されていた
太平洋戦争は3年8カ月続けられたが、これを5段階に分けて記述してきた。最終段階の「降伏」という期間は、昭和20(1945)年4月に始まった沖縄戦から8月15日までとしてきた。もし本土決戦を行い、昭和…
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アメリカは日本が降伏しなければ毒ガスまで使う方針だった
オリンピック作戦に続くコロネット作戦は実際は行われないだろうとアメリカ軍の首脳部は考えていたという。日本がどれだけ特攻戦術を用いてきても、九州を制圧すれば日本は戦争それ自体を継続できないと考えていた…
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米軍は南九州に陣地を築き関西、関東を攻撃する方針だった
戦略爆撃調査団の各種調査の報告を読むと、開戦から半年ほどですでにアメリカは圧倒的な軍事力で優位に立っていたことがわかる。その差を自覚することが、日本の軍事指導者にはなかったと言っていいであろう。確か…
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戦争指導者は軍需に特化する予算を組めば勝てると盲信した
さらに続けるが、アメリカの戦略爆撃調査団報告書(その一部を訳した「日本戦争経済の崩壊」正木千冬訳)を読んでいくと、1941年度と42年度の日本の全生産量は比較的順調であった。40年度の国民総生産は3…
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日本は本質的に「小国」であり、経済はその日暮らしだった
戦略爆撃調査団の調べ上げた各種の数字を具体的に紹介したいとも思う。そういう数字に基づいて書かれた日本の戦争政策について、調査団は呆れた筆調で前述の書(「日本戦争経済の崩壊」正木千冬訳)に解説を書き残…
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GHQは8000人の調査員を使って「戦争の報告書」をまとめた
戦略爆撃調査団のスタッフは、まず全国の村々にまで調査の網を広げた。調査団は最高司令官のマッカーサーに命令を出すことを要求できたので、日本の全ての官庁、産業団体、軍事団体に次々と資料を出すようにと命じ…