保阪正康 日本史縦横無尽
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歴史観を持たない日本の軍人が愚かな侵略を行った
中国国民党には、孫文亡きあと、3つの有力なグループがあった。これは孫文の秘書でもあった山田純三郎の書き残した原稿からの引用になるのだが、山田流の言い方によると「西山会議派」「改革派」「独裁派」である…
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西洋を追いかける日本は西洋に倒されると陳立夫は分析していた
中国の文化と自国の文化を融合させた日本の文化、伝統は相応に意味のある、人類史の上では貴重な意味を持っていたはずである。陳立夫は、そういう文化を日本人の特徴と見ているかのようであった。ところが、と言う…
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「日本人はアジアの他国を侮った」と陳立夫は言った
私が陳立夫を取材したのは1990(平成2)年の春である。それから約2年の間に5回ほど面談して話を聞いた。国民党の組織部長として党を動かしていた彼は、蒋介石の右腕でもあった。兄の陳果夫とともに、日本軍…
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日本軍は「手向かう蒋介石を懲らしめる」と言い出した
蒋介石の関頭声明は、中国人の心を揺さぶった。日本軍が我が領土で勝手に軍を動かし、我々の祖先の残した歴史的責任を侮辱するがごときは許されない、とも述べていた。その声明の中で「いま中国は弱い国である。し…
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日本軍は停戦交渉を持ちかけつつ中国軍に一撃を加えた
日中戦争はこの盧溝橋事件が発端になり、やがて全面戦争に発展していった。たしかに7月7日の夜に発砲事件があり、小競り合いの様相は呈したが、それから明け方までは特に軍事衝突の兆候はなかった。ところが明け…
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1937年7月、盧溝橋での一発の銃声によって日中戦争が勃発
前回に続いてもう少し、孫治平の証言に耳を傾ける。彼はカリフォルニアの大学に留学してから、南京から届く情報や新聞によって次第に、日本軍が中国への侵略を強めていることを知った。そういう話をする時には、冷…
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日中戦争の中、米国知識人は中国への支援を惜しまなかった
前回触れた孫治平の証言をいま少し紹介していきたい。孫治平は孫文の子息である孫科の次男であった。1990年代初めに私は台北で取材することができた。温厚で優しい口ぶりが印象的であった。 むろん中…
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日本軍は内陸に誘い込まれたことに気づかず「勝った」と錯覚した
盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、それが長期戦の様相を帯びて、やがて対米英蘭戦争にと行き着く。昭和の戦争は歴史的に見れば、日本の軍人が対中国政策を誤ったのが原因であった。どうしてあれほど傲岸、…
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張学良は言った「私は日本の陰謀を見破れなかった」
張学良の回想を続けていく。 「当時の日本人は、自分たちが一番優れていると思っていたようですが、中国のことは全く分かっていなかったのです。(父が暗殺された)あの時、私が国旗を国民党の青天白日旗に…
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「日本軍人が大嫌い」張学良が語った父・張作霖の爆殺事件
昭和3(1928)年6月、張学良の父・張作霖は関東軍高級参謀の河本大作らによる陰謀で、乗っていた列車が奉天郊外で爆破され、死亡している。張作霖が自分たちの意見に耳を傾けなくなったが故に、関東軍が暗殺…
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軟禁状態から54年ぶりに解放された張学良は何を語ったか?
張学良のインタビューは、いくつかの国で報道された。正確に言えば1936年12月から、張学良は国民党政権下で軟禁状態にあったわけだが、時の台湾政府の指導者である蒋経国(蒋介石の長男)によって、1989…
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国共合作が成立するも、張学良は50年の軟禁の刑を受けた
周恩来が西安に乗り込んできた段階から、国民党と共産党の話し合いが進んだ。そのことは共産党側が張学良と接触していたことを裏付けていた。むろん南京にあっても、周恩来は陳立夫に接触を求めていたのだが、とに…
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スターリンは中国共産党に「蒋介石を殺すな」と命じていた
国民党の指導者である蒋介石が、旧北方軍閥を代表している張学良に西安で監禁されたというニュースは、日本社会でも号外で知らされた。中国の国民党の内輪揉めといった扱いで、それに共産党が絡んでいるとの見方で…
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「蒋介石、軟禁さる」というニュースが世界を駆け巡った
西安事件は、近代中国にとって重要な事件であった。蒋介石の指揮下に入っていた張学良が、駐屯地の西安を訪れた蒋介石とその幕僚に「反乱」という形で抵抗したのである。もともと蒋介石は、この地での共産党勢力の…
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「滅共第一」「抗日第一」国民党と共産党は反目していた
日中戦争の始まる前、中国の情勢は確かに混乱していた。大状況で言うならば、中国国民党の指導者である蒋介石が北伐を行い、全国統一を進めていた。国民党軍は各地の地方軍閥や政治組織を抑える形で中国各地に相応…
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東條英機は溥儀に対して「あなたは我々の傀儡」と通告した
孫文の秘書であり、満鉄の社員でもあった山田純三郎の残した手記をもとに、辛亥革命の第2次、第3次の革命により、孫文の思想で固められた中国国民党が主導権を握り、表面上は国民政府で統一される様子を見てきた…
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多様な人材を…満鉄は近代日本のシンクタンクを目指した
辛亥革命は袁世凱政権を倒す第2革命、そして孫文の思想を現実にするための第3革命と続くわけだが、山田純三郎の手記は昭和14(1939)年の秋に書かれたもので、すでに満州事変、日中戦争が始まり、日中間は…
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三井の森恪は二千萬圓と武器で満州をよこせと要求した
山田純三郎の手記をもとに、孫文を中心に辛亥革命に協力した日本人を紹介しているのだが、森恪からの電報には次のようにあったというのである。 「時恰も三井の森恪から南京政府が日本に満州を提供するなら…
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第二革命の失敗で孫文は日本に亡命 頭山満の保護を受けた
辛亥革命に至るプロセス、そしてその後の第二革命、第三革命と続く渦中で、孫文の秘書役を務めた山田純三郎の書いた手記をもとに、さらに歴史の秘話を紹介していく。 1911年10月10日に武漢での決…
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黄興と孫文 革命の両雄に東京で握手させた犬養毅と頭山満
孫文は山田良政の死に衝撃を受ける一方で、その墓地が彼の故郷の弘前市や東京の菩提寺にできると、碑文を寄せている。表面上は辛亥革命がなった2年後の1913(民国2)年に日本に来たときに、同志・山田良政の…