保阪正康 日本史縦横無尽
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使節団の帰国とともに新政府内に新たな権力闘争が起きた
岩倉使節団は結果的に、日本の指導者間の関係を再整理することになった。彼らは現実を見つめる目や、これからの国づくりに何が必要とされているかを的確に見抜く感性と知性を持っていた。伊藤博文は長州の出身だか…
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ビクトリア女王にとって日本は極東の小国に過ぎなかった
岩倉使節団の本隊はイギリスに4カ月近く滞在した。滞在期間が延びたのはイギリスに見聞する価値のある施設やシステムが多数存在したからでもあったが、一番の理由はビクトリア女王が夏の休暇を取っていて日程の折…
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新島襄は再三にわたり「帝国大学はつくりたくない」と拒否
幕末から維新への変革はいくつかの因子が重なり合って一つの体制をつくっていった。この体制は主に個人の力によってつくり上げられたと言うこともできる。私はその個人に大久保利通や木戸孝允、岩倉具視、西郷隆盛…
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山県有朋の「徴兵令」に旧士族と庶民が激しく反発した理由
近代日本の軍事について、山県有朋の果たした役割は大きい。彼は明治2年に長州藩から海外視察の命を受け、ヨーロッパのいくつかの国の軍事について見聞している。そこで自覚したのは、日本の近代化は単に西洋の事…
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徴兵制敷いたドイツの軍事観は日本の現状にぴったりだった
ドイツ帝国をつくり上げたビスマルクの演説に心を奪われたのは大久保だけではなかった。木戸孝允もまた納得していた。木戸はビスマルクにぜひ日本の復興を助けて欲しいと申し入れている。 「我々の国は数百…
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大久保利通はドイツ帝国を誕生させたビスマルクに感銘した
明治新政府は大久保利通を指導者の中核に押し上げていった。大久保にそれなりの資質があったからだ。彼の資質は決して感情に溺れないことであった。 岩倉使節団の人選をするとき「いまは国内政治が大事な…
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アメリカの自由の精神に関心持つも「結束が乱れる」と否定
大久保利通と伊藤博文は日本に戻って天皇の委任状をもらおうとしたが、ここで留守政府を預かっている参議たちと一悶着が起きた。これが明治政府の第一の内紛になり、西南戦争の伏線にもなっていく。 大久…
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大久保利通は浴室やトイレも備えた米国のホテルに驚嘆した
この岩倉使節団の見聞は、日本の社会とは全く異なる欧米の文化、生活様式に触れることで、その吸収を急ぐという方向に向かった。日本が3世紀近く眠ったような状態にあったと考えたのである。そのことに気づいた日…
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津田梅子も…「婦女の鑑」を期待された5人の女子留学生
岩倉使節団の中には5人の女子留学生も交じっていた。山川捨松、永井繁子、津田梅子らで、そのうち梅子はまだ6歳であった。大体が新政府の要人たちの推挙であったり、有力者の縁続きの者であった。次代を担うには…
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岩倉使節団の成否は明治新政府の今後を占う重要な鍵だった
岩倉使節団には3つの役割があった。その1は明治新国家をどのような国にしていくかの視察と諸外国に学ぶことである。その2は日本が鎖国を解いて新国家として誕生したことを知らせる。その3は安政5年に五カ国(…
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明治維新は「解体」と「再生」の容赦ない“革命”だった
近代日本史はペリーの黒船来航で始まった。国を閉じていた幕府は、これは従来にない国難であり、危機であると受け止めた。むろん朝廷もそのように受け止めたが、しかし幕府から詳細を知らされていなかったので、ま…
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大震災の虐殺…東京弁護士会は流言飛語を事実と断定した
関東大震災は地震の規模がマグニチュード7・9だったことから、死者と行方不明者が約10万人に達するだろうといわれている。これとは別に朝鮮人と中国人、日本人の社会主義者が殺害された。その人数がどれくらい…
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関東大震災の避難民に大邸宅を開放…人情家だった後藤新平
9月1日に関東大震災が起きた時、内閣が存在していなかった。この年(大正12年)8月24日に加藤友三郎首相が急死して、内閣が崩壊したからである。外相の内田康哉が臨時首相代理のポストについていた。大震災…
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「西洋の覇道かそれとも登用の王道か」孫文は日本に迫った
実は孫文は、犬養毅への書簡の中で今回の地震に対する慰めとともに、日本がこれから進むべき道をぜひ明確な形で表して欲しいと訴えていた。日本は欧米列強の望む方向に進むのではなく、われわれとアジア諸国の独立…
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友人である孫文の見舞い書簡に犬養毅は返事を出さなかった
大正末期の日本人にはさまざまな生き方があった。いわば歴史と触れ合って生きる人たちである。ほんの一端だが、彼らの姿も語っておくことにしたい。 大正12(1923)年9月1日の関東大震災から、日…
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芥川龍之介は暴力と弾圧が支配する時代の到来を予想した
「キング」は率先して国民を善導しようとの意気込みを持っていた。誰にも面白く、そして日本精神を世界に広めようとの意志をあらわにしていた。部数は目覚ましい伸びを見せた。大正15年の新年号は150万部に達し…
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武者小路実篤ら白樺派と新雑誌の2つの流れが生まれた背景
モボやモガの登場は明らかに都市住民の中に意識上の変化が起こっているということであった。この変化はいわば新中間層が膨れ上がり、その肥大からくる社会の退嬰を代表していることでもあった。 モボとモ…
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谷崎潤一郎「痴人の愛」のナオミはチップで暮らす“女給”
昭和初期に東京や大阪のターミナルでは「モボ」や「モガ」と評される若者たちが、既存のモラルに抗するように派手ないでたちと化粧で街を練り歩いた。同時に昭和初年代から三原山での飛び込み事件のように「自死」…
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時代の空気を代弁 ターミナル駅に「モボ、モガ」が現れた
関東大震災後の日本では主に作家たちがこの社会の無常観や虚無感を描いたのに対し、別な角度からの心理的描写もなされた。この未曽有の天災は、日本人が第1次世界大戦後に物心両面で増長していることへの戒めだと…
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摂政宮を銃撃 元皇室崇拝者だった23歳青年の「復讐心」
近代日本にあっては、天皇を狙撃する庶民が存在することなど考えられなかった。天皇はこの国の主権者であり、軍の最高責任者であり、その存在はまさに「神」でもあった。また、家族共同体の家父長的存在でもあった…