保阪正康 日本史縦横無尽
-
昭和天皇は「松岡外相は外国から賄賂をもらったのか」と呟いた
近衛文麿首相と松岡洋右外相が不倶戴天の関係になったのは、日米交渉への向き合い方の違いにあった。近衛は妥協点を探して外交交渉によって良好な関係に持っていこうと考えていたわけだが、松岡は三国同盟を死守し…
-
アメリカ政府も近衛首相も自己本位な松岡外相を信用していなかった
「対英米戦を辞せず」という一節が御前会議で決定して駐米大使の野村吉三郎に伝えられたわけだが、それはアメリカの暗号解読班に見事に解読されていた。日米交渉はそれ以後まさにアメリカの手のひらで踊らされている…
-
「対英米戦を辞せず」を盛り込むも日本の軍部は本気で戦争を考えていなかった
御前会議で決まった国策は、「第一 方針」と「第二 要領」に分かれていた。基本的な方針が定まり、それに沿っての具体的行動が「要領」との意味でもあった。この要領の第2項には「帝国は其の自存自衛上、南方要…
-
駐米大使の野村吉三郎に送られた「対米英戦ヲ辞セズ」の一節
電文解読は日米交渉が進むにつれてその影響力が増していった。昭和16(1941)年4月から11月までの失敗が明確になるまでに、第2次世界大戦は意外なゆがみを生じさせていった。年譜を見るとわかるのだが、…
-
日本の「解読技術」は中国・国民党司令部の暗号を解き明かした
陸軍省軍務局の高級課員・石井秋穂は、外務省のワシントンの日本大使館宛ての暗号電報が解読されているのではないかと気づき、外務省を訪ねて注意を促そうと席を立った。しかし外務省に行って「おたくの電文は解読…
-
米国の暗号解読を、日本陸軍は気づいていた
日米交渉は7カ月余にわたって続いた。その間、日本の本省とワシントンの駐米大使館との暗号電報のやりとりは、全て解読されていた。そのため日米交渉でアメリカ側は日本がいかなる案を持ってくるか、日本側の心理…
-
解読されていた日本の外交暗電 手の内は米国側に筒抜けだった
ルーズベルトはドイツと日本の枢軸体制を全面的に解体するまで戦う方針だったが、アメリカの軍事指導者は戦況の動きを見つめつつ、ある段階からドイツ国内の戦争政策に反対する勢力を支援し、戦争の原因になってい…
-
日本を挑発する作戦に出た米ルーズベルト大統領とコーデル・ハル
太平洋戦争のきっかけは、昭和16年4月から10月までの7カ月間にわたって行われた日米交渉の失敗ゆえである。この7カ月間の交渉は日本とアメリカの指導者の政治力の戦いでもあった。最終的に日本はハルノート…
-
陸海軍と右翼団体に支援された松岡洋右を警戒したグルー駐日米大使
松岡洋右という人物は特異な性格の持ち主であった。ベルリン、ローマ、モスクワを訪問して、枢軸体制の2人の指導者に会い、さらにはドイツと不可侵条約を結んでいる社会主義陣営の指導者に会い、国際社会がどのよ…
-
近衛文麿首相を激怒させた松岡洋右の難癖、許し難い抵抗の姿勢
近衛文麿首相は片方で吉田茂を中心とする親英米派に依存し、もう片方で松岡外相の対米宥和政策に期待をかけていた。両者には対英米政策の打開が必要との認識があったが、その手法には大きな違いがあり、やがてそれ…
-
吉田茂は憲兵隊の電話盗聴や尾行される中、近衛文麿に極秘書簡を送った
昭和15(1940)年の9月ごろから翌16年の初めにかけて、近衛文麿内閣を支える親英米派の要人たちは極めて精力的に動いた。近衛を中心に政治を動かすのが最も天皇の意思に沿っているからというのが理由でも…
-
親英米のふりを続けた松岡洋右外相 次第に本心を明かしていく
昭和史の中で近衛内閣の評価が高くないのは、松岡洋右外相を使いこなせなかったこと、そして陸軍の強硬派を代弁するだけの東條陸相を罷免できなかったことに尽きると言えるだろう。松岡と東條は昭和史の中で最も責…
-
近衛文麿と共に冷静な分析の声がかき消された時代
近衛文麿内閣の動きを見るときに、私たちはその心情の細部にわたって検証することを怠ってきた。理由はいくつもある。ひとつは近衛自身が昭和20(1945)年12月に自殺して、一切の弁明を拒否する姿勢を貫い…
-
大政翼賛会と皇国史観の継承の役を担わされた近衛文麿の悲劇
昭和15(1940)年7月に第2次近衛内閣を組閣してからの近衛文麿は、自分に欠けているのは、自らを政治的に補佐する与党勢力の確保と理解していた。そのため大政翼賛会を設立し、その国民的支持基盤を厚手に…
-
日本軍は第2次世界大戦へ 軍部が天皇に仕掛けた必至の政治ドラマ
近衛文麿は昭和10年代の日本の政治を担うには、あまりにも神経質すぎるきらいがあった。その知性、識見、それに社会観は当時の日本にあっては、他の誰にも負けないほどの優れた能力ともいえた。しかし他人を押し…
-
東條英機と松岡洋右を内閣に起用した近衛文麿の計算違い
昭和15(1940)年という年は日本にとって岐路に立った年である。この年に日本は国策の方向を明確にして、翌年からの太平洋戦争への道筋をはっきりと示した。米内内閣は海軍の出身らしく陸軍の主張するドイツ…
-
近衛文麿は「観念右翼一派」と「親軍派」の動きに脅威を感じた
ナチスがポーランドに入って第2次世界大戦が始まり、日本はその電撃的な攻撃に酔いしれた。軍部や国民の中からもヒトラーに呼応しろという声が高まり、アメリカやイギリスに強い態度で交渉せよと叫ぶようになった…
-
駐日アメリカ大使のグルーが分析した戦前日本の3グループ
独ソ不可侵条約が結ばれ、日本はなすすべもなく呆然とした状態になった。体よくいえば、ヒトラーとスターリンの野合にいいように利用されたのだが、日本陸軍の指導者はこの不可侵条約にヒトラーとスターリンが自ら…
-
第2次世界大戦の導火線となった独ソ不可侵条約…政府、軍部が直面した5項目の選択肢
英米可分論か不可分論かは、結局は日本の運命を決定することにもなるのだが、この論の推移を見ると、日本社会のずさんな、そして自己本位な見方が浮き彫りになってくる。都合の良い思い込みで事態を理解することに…
-
陸軍と海軍が対立した英米の「可分論」と「不可分論」論争
チャーチルに対して、日本はその実像をほとんどつかんでいなかった。チャーチルの政治目的や戦争観などを全く確かめる余裕がなかったといってもよかったのだ。チャーチルとルーズベルトの間柄がどのようなものか、…