保阪正康 日本史縦横無尽
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東条英機は「10万人の英霊に申し訳ない」で軍人240万人を死なせた
東條の妥協のない戦争への論理は、閣議でも声高に叫ばれ、対米交渉を継続しての解決は無理であることが確認された。近衛を小声で励ます閣僚もいたが、東條の戦争むき出しの言には、恐怖を感じるほどだったとの証言…
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近衛の方針をはねつけて中国への「永久駐兵」を言い張った東條
10月12日の近衛首相と4人の閣僚の会議は、対米交渉がまとまるか否かの論争でもあった。近衛と豊田外相は交渉に望みをかけるべきだと言い、東條はそれに猛反対した。海相の及川は特に発言することもなく、総理…
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「シビリアンコントロール」の模範ともいえる及川古志郎海相の答え
近衛首相はこの日(昭和16年10月12日)に和戦の決着をつけると覚悟を定めていた。そのことは対米交渉での一定の範囲での譲歩を主要閣僚と固めることでもあった。さらに詳しく言えば、東條陸相の主戦論をひと…
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東條陸相は近衛首相に「国家存亡の場合は目をつぶって飛び降りる覚悟を」と主張した
近衛首相と東條陸相の間で交わされた「戦争問答」は、歴史的な意味を持っている。どういうことか。 近代日本はアメリカのペリーの砲艦外交によって、鎖国から開国に至った。さらに270年続いた幕藩体制…
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世界が日米開戦を待ち望む一方で、ドイツのヒトラーは恐れていた
この段階で、日米戦争を嫌っていた避戦派にはどのような指導者たちがいたのだろうか。開戦を望んでいるアメリカのルーズベルト大統領らの政治指導者と、日本の東條陸相や統帥部の責任者や参謀らとは結果的に「同志…
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「天皇の意思に振り回されるものか」と暴走する東條たち強硬派
東久邇宮稔彦は近衛の考え方を踏まえて、聖慮は外交交渉での解決を望まれている、この交渉に当たっては中国からの撤兵、南部仏印からの撤兵、さらには独伊との三国同盟の形骸化など、日本側が譲歩しなければまとま…
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御前会議以降、東條英機を説得するために近衛文麿は皇族を使った
御前会議の決定以降、近衛内閣は交渉妥結を目指して極めて精力的に動いた。近衛自身、天皇の意思を十分に確認したのだから、とにかく前に進む以外にない。 「敵」は2つの勢力だ。ひとつはアメリカ側を納得…
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戦争に突き進んだ軍人たちの3つの本音
当時の日本社会にあって、国策の決定の最高会議はいうまでもなく御前会議である。しかしこの会議で甲論乙駁して国策が決まるわけではなかった。こと戦争政策に関しては、大本営政府連絡会議での決定を御前会議で追…
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昭和16年9月6日の御前会議が戦争への伏線だった
この9月6日(昭和16年)の御前会議での「帝国国策遂行要領」は3項目の決定を明記している。その1項目と3項目には外交交渉の期限設定と、「10月上旬」になっても日本の要求が通らなければ、直ちに対米英蘭…
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天皇の平和への望みを裏切った 東条英機ら軍人たちの「歴史上の責任」
本欄をしばらく休載していたが、本日から再開させていただきたい。昭和16(1941)年9月6日の御前会議の場面から筆を続けることにする。 この御前会議で、昭和天皇は慣例上は発言しないという慣行…
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天皇が御前会議で詠んだ明治天皇の御製 懐中から一枚の紙をとりだして…
9月6日の御前会議は午前10時に開会して、正午に閉会している。時間にすればわずか2時間ということになる。だが近代日本をドラマに例えれば、この御前会議がクライマックスの一部を構成していることは間違いな…
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近衛内閣は軽さゆえに陸海軍の総帥部に付け込まれた
9月6日の御前会議は戦争政策を進めたい軍部(特に陸海軍の統帥部)にとって戦争を始めるための重要な会議であったと、のちに近衛を責めるきっかけにされた。実際に10月中旬までに外交交渉が成功しなければ、開…
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昭和天皇を驚き、呆れさせた「帝国国策遂行要領」の3つの選択肢
首脳会談の前に予備会談を開き、会談の前提を確認しようというルーズベルトの提案は、昭和16(1941)年9月3日にワシントンで示された。それは振り出しに戻るということであったのだが、野村から本省に電文…
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首脳会談の破壊を企てる強硬派の軍部と疑心を抱くルーズベルト大統領
ルーズベルト大統領は野村吉三郎駐米大使に対して、近衛の首脳会談への細部にわたる申し入れに賛成を示しつつ、予備交渉を行うべきだとの条件をつけた。それは交渉が始まった4月の日米了解案を再度確認するとの意…
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近衛・ルーズベルト首脳会談をめぐる「開戦派」と「非戦派」それぞれの思惑
近衛・ルーズベルト首脳会談は、ワシントンでの野村大使とハル国務長官の話し合いでは実現の可能性があるように思えた。陸軍省の将校は随員として加わるメンバーを密かに選び、彼らの中には、軍人ではなく、外交官…
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ルーズベルト大統領は野村大使に「近衛は英語を話すのか?」と聞いた
ルーズベルトは野村大使からの首脳会談の提案に乗り気であるようにみえた。チャーチルとの会談で大西洋憲章を求めた後になるのだが、ワシントンに戻るとすぐに野村に会っている(8月17日)。表面的には首脳会談…
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天皇の側近は「近衛首相は暗殺される」と忠告した
近衛首相からの訓令に基づいて、野村大使が国務長官のハルに首脳会談を申し込んだのは8月8日(1941年)である。ハルは、大統領は今ワシントンにおらず、ニューファンドランド沖でイギリスのチャーチルと洋上…
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天皇も上機嫌で期待した「近衛文麿・ルーズベルト会談」
昭和16年7月、8月は日本にとって重要な時期であった。ヒトラーのヨーロッパ制圧と裏切り、ルーズベルトらアメリカ側の電文盗聴、チャーチルのアメリカ参戦工作、そしてスターリンのヒトラーへの怒りと独ソ戦で…
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日本を三国同盟に引き込み戦争に向かわせたヒトラーのからくり
対米英戦を辞せずの強硬派は、アメリカの予想しなかった反撃に苛立った。我々を甘く見るな、というわけである。彼らは本当に対米英戦を辞せざる覚悟を固めたのであった。むろんそれは日本の見通しの甘さを逆説的に…
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石油の禁輸措置により、将校たちは開戦の動きに興奮していった
近衛文麿首相はアメリカが危険視している松岡洋右を内閣から追い出したので、日米交渉は支障なく進むと考えた。ところがアメリカ側はそれほど甘くはなかった。新外相の豊田貞次郎に関してはそれなりの評価をしたが…