保阪正康 日本史縦横無尽
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天皇を驚かせた海軍内部の反対論 重臣の3分の2は「対米忍苦、現状維持」
前回で触れたように、太平洋戦争の開戦に至る道筋を見て、4つの視点から新視点を出しておきたい。まず1の天皇の開戦決意はいつであったかという点だ。それには3段階があったと見てきた。開戦絶対反対、開戦・避…
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政治・軍事指導者たちの中で“真の忠臣”は誰だったのか?
天皇はハルノートを受け取ったにせよ、明確に開戦の感情を持つに至ったわけではない。大本営政府連絡会議に出席して、戦争の可否を決める軍事指導者たちのいきりたつ様子とは全く心情を異にしていた。「開戦やむな…
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東條英機はハルノートをどのように天皇に報告したのか
昭和天皇が東條英機首相から、ハルノートの内容について報告を受けたのは、11月27日の午後1時27分であった。東條がどのような内容を報告したのかは「昭和天皇実録」にも詳しくは書いていない。しかし、どの…
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開戦直前まで続いた天皇の心中の戦い 最後まで交渉にこだわるよう主張
昭和天皇は確かに政治、軍事指導者たちより冷徹に事態を見つめていた。対米外交に浮足立って、もう戦争以外にないといった興奮とは一線を引いていた。 その本心はどのへんにあったのか。繰り返すが、天皇…
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来栖三郎の名前は「米国を騙さないで」の意味に使われた
ハルノートを突きつけられた日本は、政治と軍事の指導者がまさに混乱状態になって戦争に突入していくのだが、その2週間足らずの道筋は極めて軽率で、そして感情的であった。ハルノートはどんな罠を仕掛けていたの…
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野村吉三郎大使は米国の“意図的な罠”にはまる役を演じさせられた
野村大使は海軍の出身だが、アメリカ政府内に多くの友人を持っていた。海軍の駐在武官のポストに就いたこともあった。海軍の中では紳士とされ、同時に法律にも詳しいというので軍政のポストに就くこともあった。駐…
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アメリカに読まれていた日本の動き 「そのあとは戦争である」と電報は伝えていた
日米間のだまし合いが具体的になったのは、昭和16(1941)年11月20日からと言っていいだろう。この日からほぼ1週間は、お互いに腹の探り合いに終始していくことになった。むろんその結果は見えていて、…
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米国は短波で放送される天気予報で日本の動きを把握していた
日本とアメリカがお互いにだまし合うという関係で、日米外交交渉は進んだ。昭和16(1941)年11月の半ばからである。太平洋戦争はこの年の12月8日から始まったとはいえ、実際には11月5日の御前会議以…
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ハルは第一印象で外務省が送り込んだ来栖三郎を「嘘つき」と見抜いていた
繰り返すことになるが、日本で対米交渉の内幕を知っている者は、外交関係者と政府関係者、それに大本営政府連絡会議に出席している政治、軍事の指導者しかいなかった。真珠湾を攻撃した日(12月8日)に東條の秘…
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米国は日本の軍事攻撃を察知し、開戦の責任を押し付ける罠も用意していた
日本は東條内閣になって、結局は戦争を選択することに決定したのだが、それ以降の外交交渉はむしろ失敗を前提に進めている感じになった。こういう状態はアメリカ側に筒抜けであった。国務長官のコーデル・ハルの「…
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東条英機は「自分に抗することはお上に逆らうことである」と考えた
天皇としてはいかなることがあっても避戦という立場にこだわっていたのが、「戦争やむなし」の心境に傾いたのは11月5日の御前会議の前後であった(昭和16年)。そしてこの時に12月8日が開戦の日だと知った…
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昭和16年11月5日の御前会議で天皇の避戦・開戦の心情は五分五分となった
昭和天皇の心理はどのように変化したのか。これまでの資料と、改めて刊行された「昭和天皇実録」などを参考に詳細に分析してみる必要がある。その前にもう一つ触れておかなければならないことがある。近代日本史を…
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天皇は東條英機から、もう戦争しか道はない、あなたも覚悟を、と要求された
東條内閣が天皇の意思に沿ってアメリカとの戦争を避け、外交交渉で活路を開こうとしたことは、たしかに事実であろう。「もし戦争を選択しなければ帝国の今後はどうなるか」といった項目を出席者で論じたとしても、…
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御前会議の前後から、昭和天皇は「やむを得ないのか」と思うようになった
日本が対米英蘭戦争に踏み切るのは、最終的には昭和天皇の意思によった。近衛文麿に代わって東條英機に大命を降下したのは、たしかに内大臣の木戸幸一とされているのだが、内々には天皇も、戦争を避けるには好戦派…
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反東條の動きがつぶされ、天皇も非戦から「戦争やむなし」となった
ハル国務長官の回想録を読むと、彼は東條英機陸相が首相に就任したことに相当驚いた様子であった。対米戦の強硬論者がなぜこの期に首相になるのか、日本が危険な賭けに出たように受け止めたであろう。回想録では、…
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東條英機の首班任命で出てきた「天皇は戦争を決意した」との判断
近衛に代わって東條英機が新しく首相になったことで、国の内外で、日本は戦争を選択したと判断する人物がいた。東條が天皇から、戦争政策の白紙還元を要求されて就任したことなど、一般には知らされていない。つま…
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御前会議の「白紙撤回」を条件に 東條を首班指名した歴史の大博打
陸軍の強硬派を代弁していた東條英機が、首相になったのは確かに不可解なことであった。 近衛が総辞職したときには、近衛も東條も次期首班は東久邇宮を想定する形で事態を見守っていた。近衛は東久邇宮に…
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東條英機陸相は自分もテロで殺されると怯え、近衛首相に強腰に出た
東條陸相の近衛首相への伝言は、国家が対米英蘭戦争を選択するための脅迫状のようなものであった。自分があなたにこれ以上会うと感情的になるから会わないと、伝言役の鈴木貞一企画院総裁に言わせているのである。…
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東條陸相は「感情を害するから会いたくない」と近衛首相を拒絶した
近衛首相と東條陸相の対立が最終的に決定的になったのは、昭和16(1941)年10月14日の夜であった。前回紹介したイギリスの「第二次世界大戦人名事典」の表現を借りるならば、まさに和平追求派が視野の狭…
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国際社会の東条英機への評価は「世間知らずの視野の狭い軍国主義者」
太平洋戦争の開始から81年が過ぎた。言うまでもなくこうした史実は、すでに「歴史」の中に吸収されている。それなのに今改めて、対米英蘭戦争の開始に至るプロセスをなぞるのはなぜか。このシリーズの意図すると…