保阪正康 日本史縦横無尽
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シリーズ「伴食宰相」(7)本人も予想外だった鈴木善幸総理、恬淡だった就任と退陣
首相が短期間に辞める時期が昭和の議会政治上には3回あったと書いてきた。そして昭和から平成にかけての時期にも、そういう例があった。その時期をA群、B群、C群、そしてD群と称して、それぞれの時期の首相の…
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シリーズ「伴食宰相」(6)田中角栄の執念が生み出した“使い捨て総理”たち
昭和史の中で、首相を使い捨てのような時代が3回あった。あえて付け加えると、昭和から平成にかけてもそのような現象があり、都合4回を数えることができると記してきた。首相自身に何かが欠落しているというのが…
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シリーズ「伴食宰相」(5)社会党左派が幼稚だったのか、片山哲が無能だったのか
片山哲内閣は、新憲法下で初めて誕生した内閣である。総選挙(昭和22年=1947年4月25日)で第1党になったのは社会党で143議席、次いで保守系の自由党が131議席、民主党は124議席、そして国民協…
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シリーズ「伴食宰相」(4)東久邇宮稔彦は2つの大きな屈辱を味わった
A群の首相は結局、近衛文麿を除いては表現は悪いが「使い捨て」という言い方ができた。ではその他の群の短命内閣はどのような特徴があるのだろうか。昭和中期のB群、昭和後期のC群などはどうだろうか。こんな人…
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シリーズ「伴食宰相」(3)阿部信行に見る昭和10年代の短命内閣に共通する4つのこと
昭和10年代の首相が目まぐるしく変わった時代の2人の首相(林銑十郎、平沼騏一郎)の実像を見てきた。いずれも首相としては欠落していることが多かったのだ。すでに述べてきたようにA群、B群、C群、そしてD…
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シリーズ「伴食宰相」(2)独ソからいいようにあしらわれた平沼騏一郎の弱さ
林銑十郎の後を継いだ第1次近衛文麿内閣、その後が平沼騏一郎であった。この平沼もまた首相の器だったろうかとなると、疑問を呈さざるを得ない。いくつもの疑問があるのだが、最大の疑問は、平沼は天皇に嫌われて…
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シリーズ「伴食宰相」(1)林銑十郎 “軍部の政治爾介入の道筋つけた越境将軍”
昭和という時代には、32人の首相が政治を担った。この中には、これでよく首相が務まったねと嘆きたくなる人物(「伴食宰相」)が何人かいる。結局そういう人物の後に必ず独断、無思想、無定見、さらに声だけは大…
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政治的業績を残さなかった石橋湛山は、それでも普遍的な言論人だった
石橋湛山は首相としては、政治的業績を残したわけではない。政治家の判断を、実際に何をなしたかという結果で見るならば、石橋は特筆される点は決して多くない。しかしこれまで述べてきたように、言論人のその活動…
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石橋湛山は日本人の恐怖と極端さをも深慮していた
言論人・石橋湛山の論稿の中から大正デモクラシー時代に関わる2つの論を紹介した。国会の常時開会と小日本主義でいいではないかとの論であった。さて政治家に転じた後の石橋は、自らの言論をいかにして政策に変え…
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植民地は軍事的にも持つ意味はないと論じた石橋湛山の先見性
石橋湛山が、大正10(1921)年7月、8月に書いた「大日本主義の幻想」は当時の大正デモクラシーの空気を十分に代弁している。いわゆる小日本でいいではないかというのは、極東の一角に民主主義の範となる国…
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石橋湛山は実証的な大日本帝国主義批判をした、ただ一人の言論人
近代日本が帝国主義の道筋を選択したことに、不満、不平を持った有識者は決して少なくない。それが是か否かはすぐに結果が出たわけではないのだが、「否」という流れを背負っていることを指摘した論者は珍しい。し…
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帝国議会の会期は12カ月にしろと提言した石橋湛山の先見性
石橋湛山の言説はどのような内容なのか。明治44(1911)年に東洋経済新報社に入社して、社会評論雑誌「東洋時論」の編集に参加、以来同社にあって時代への警世の論を描き続けた。その中から代表的な論説(歴…
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戦後初の私大出身首相・石橋湛山の誤算
石橋湛山についてはこれまであまたの稿が書かれている。私自身も書いてきたので、内容がかぶることもあるのだが、このシリーズではあえて首相としての石橋に触れることにしたい。首相になってわずか65日で健康を…
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昭和には後世の人々に安堵と信頼を与えているという総理が存在する
前回、昭和の32人の首相の在任期間を通じて、どのようなことがわかるのかの分析を試みてきた。そこで理解できたことだが、ある期間に首相が目まぐるしく入れ替わる史実を通して、歴史的法則のようなものが存在す…
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私たちの国は大きなテーマに出会うときに首相を使い捨てにしてきた
鈴木貫太郎、近衛文麿、そして石橋湛山の3人は、昭和の32人の首相のうち歴史的意味を仮託させながら論じていくべき指導者である。昭和の前期、中期、後期を象徴するのは好悪の感情は別にして東條英機、吉田茂、…
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近衛文麿は統治権の「最後の守護者」となれなかった「悲劇の宰相」
昭和前期の中に近衛文麿首相を位置づけるならば、「軍部に利用された首相」という語が最もふさわしい。むろんそれは近衛の政治的性格が弱かったということもあるのだが、もっと簡潔にいえば近衛という天皇の側近を…
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軍部に敗れていった近衛文麿「中間内閣」
第1次近衛文麿内閣は、昭和14(1939)年1月の総辞職で終わった。1年半の在任期間であった。この期間は日中戦争が始まり、不拡大を模索した近衛が軍部に敗れるという歴史とも言えた。近衛自身、死後に刊行…
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杉山元陸相に体よく押し切られた近衛文麿の泥沼
なぜ蒋介石への密使である宮崎龍介が逮捕されたのか、近衛は怒りを杉山に伝えたというのである。彼の回想録からの引用になるのだが、近衛は次のように書いている。 「杉山陸相に自ら諒解した事項を憲兵を使…
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和平路線を模索した近衛文麿は蒋介石とのトップ会談を画策した
昭和の首相として、天皇や西園寺公望ら宮中側近たちの近衛文麿に託された期待は大きかった。近衛の持つ政治感覚は確かに時代に先駆けるものも備えていた。にもかかわらず昭和の32人の首相体験者の中で、高い評価…
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盧溝橋事件から日中全面戦争へと追い込まれていく近衛文麿
近衛文麿が我々の味方になりうるか、軍事指導者らがさっそく試したのが、盧溝橋事件であった。近衛が首相に就任して1カ月後に起こったこの事件そのものは、確かに偶発的であった。しかし軍事指導者は、この事件を…